昨年から社会人リーグの関西1部・FCティアモ枚方でプレーする野沢拓也も、日本代表のキャップ数に恵まれなかった。鹿島アントラーズの下部組織で育ち、高校3年時の17歳でJ1デビュー。高い技術を持ち、“変態トラップ”とも呼ばれたボールタッチからの天才的なプレーで、鹿島では通算254試合出場50得点をマークし、リーグ3連覇にも貢献した。しかし、日本代表では2006年にオシム監督から初招集されたが出場なし。その後、ザックジャパン時代に候補としては名前が挙がったが、それっきり。ジーコの愛弟子と呼ばれた男は、その能力を考えればサムライブルーのユニフォームを着てピッチに立っていてもおかしくなかったが、好不調の波が激しく、鹿島でも代表でも中盤の層が厚かったこともあって「日本代表・野沢」は出場0試合に終わっている。

 奇しくも現在、野沢と同じFCティアモ枚方に所属する二川孝広も、その高い実力を代表舞台では発揮できなかった一人だ。ガンバ大阪ユース仕込みの優れたボールテクニックと空間を自在に操る浮き球のスルーパスを武器に、「浪速のファンタジスタ」として長く10番を背負った。相棒だった大黒将志がW杯舞台を経験した2006年の8月、オシム時代に初めて代表に招集され、10月の親善試合に背番号10で代表デビューを果たしたが、これが唯一の出場。当時、「リーグNo.1の無口ぶり」でも有名で、いわゆる「コミュ力」と「アピール力」が必要な代表チームでのプレーは不向きだったと言える。中盤のライバルも多く、「日本代表・二川」は出場1試合0得点となっている。

 代表監督が代われば、選ばれる選手も代わる。他の種目と比べてもサッカーはその傾向が強い。監督が採用するシステム、戦術との相性、ライバルの存在、巡り合わせ、好き嫌いなど、理由は様々だが、「日本代表と縁が薄かった選手」にも多くの実力者がいる。家長に関しては、現在34歳ではあるが、今季も川崎フロンターレで飛び抜けたパフォーマンスと実力を示しており、今からでも日本代表でのプレーを見てみたいが、森保監督、いかがだろうか。