鈴木その子(本名 鈴木荘能子)さんは1932年、実業家の裕福な家庭に生まれた。学習院女子短期大学で栄養学を学ぶものの、卒業と同時に結婚して専業主婦に。結婚を機に家庭に入るのが当たり前の時代だった。父親の死をきっかけに42歳のとき、レストラン「トキノ」を開業した。

 開業当初は一般的なレストランで、健康志向の店ではなかった。それが1976年、美容健康料理の店にリニューアル。きっかけは、愛する息子の不慮の死だった。極端なダイエット結果、体力が著しく落ちたことによる事故だった。また、母親は美食による肥満から動脈硬化を患った末に亡くなっていた。

 ただ、こうしたことを初めて公表したのは息子の死から17年後の1992年のこと。当時の新聞の夕刊に「料理研究家の鈴木その子さん 秘話公表」との見出しで記事が掲載された。記事には、予備校生だった長男がマンションの5階から転落死したのは、拒食症による貧血が原因だったと著書の中で初めて明らかにした、とある。それまでの17年間は誰にも話したことがなかったが、「若い人の拒食症がとても多いから、公表することにした」とも。

 食べて健康になれるような「食の理論」を伝える、それが経営理念となった。家族の死を胸にしまいながら事業にまい進。1985年には全国へ通信販売を開始し、食品で体のなかがキレイになったら今度は体の外につけるものを変えたいと化粧品へと事業を拡大していく。

 こうした「事業家その子」の原点を象徴するような話は各方面で聞いた。ブームのさなか、その子さんを直接取材した女性編集者(51)は、真っ白な顔に面食らったものの、その手をみて「この人は本物だ」と思ったという。

「お顔とは対照的に、手がごつごつしていたんですね。あれは料理をする人の手です。それを見た時、ああ、昭和のお母さんの手だって思いました。あの手はすばらしかった」

 経営者でありながら母のような存在。それと符合するような話を宇田川氏もしていた。

「今でも、12月5日の命日にはお墓参りに、会員の方が遠くは青森から来るんです。古くからの会員の方には、レストランで食事をしているとその子さんが来て太り過ぎよっておなかをつままれた、不妊に悩んでいると大丈夫よとおなかをさすってもらったという話を聞きました。学校の先生であり、母親のような存在なんですね」

 ただし、その子さんは宗教家やボランティア活動家ではなったのも確か。例えば、食にこだわりはあったものの、野菜は売らない方針だったという。それは身もふたもない言い方になってしまうが、もうけが少ないから。かといって、「その子さんに人生救われました」という女性の目を見ると、単なる“銭ゲバ”とも違う気がするのだ。人を喜ばせたい。そんな思いを、天性の商売の才覚を発揮して実現した女性だったのだろう。

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その子ライトとその子ブームの深い関係を見抜いた人物