■大規模な移住の痕跡からわかること

 また、石巻市の西隣の東松島市赤井遺跡等の発掘調査の成果からは、7世紀中ごろ以降、関東の人々がこの地に移住してきた可能性が指摘されている。赤井遺跡では関東で作られた土器とよく似た土器が出土する。赤井遺跡に住んだ人を葬った墓も見つかっており(矢本横穴)、墓の総数は100基を超え、その中には横穴の形状が東上総(千葉県南東部)のものと類似するものや、関東の古墳時代人骨と北海道アイヌと形質的によく似た人骨を並べて葬ったものなどが確認されている。

 これらから、古墳時代には房総半島と石巻との間に人々の交流があり、ふたつの地域の交流は海の道を利用したものであったと推定される。

■古代に確かにあった多様性を受け入れる社会

 五松山洞窟遺跡、矢本横穴はともに、地元人、関東古墳時代人、北海道アイヌの形質的特徴をもつ人骨が同じ墓に、同じように葬られていた。また、4世紀ごろの集落遺跡である石巻市新金沼遺跡では、北海道のものとよく似た土器が出土する竪穴住居と、関東のものとよく似た土器が出土する竪穴住居がある。

 おそらく前者は北海道からの移住者の家、後者は関東からの移住者のもので、それぞれの出身地の土器文化を守って、その他の生活文化も出身地域の伝統によっていたと考えられる。ただし、両者の住居の大きさには違いなく、場所も近接している。

 これらは、出身地を異にする人々が、分け隔てなくともに暮らしていた形跡だ。地域の枠を越え、海を行き交う海人たちにとっては、出身地の違いなどは大した問題ではなかったのかもしれない。しかし、そこに多様性を受け入れる社会の痕跡を見いだすことができるのである。(文/文化庁文化財第二課主任文化財調査官・近江俊秀)