70年代にいくつもの仕事で石岡とコラボレーションした作家・五木寛之氏は、私のインタビューにこう答えている。

「そうとう戦った人ですよ。毀誉褒貶いろいろある中で。あれこそ本当に革命家だった人です。とにかく仕事に対する情熱が強かった」(『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』より)

 1980年、石岡瑛子は転機を迎える。あまりに仕事に情熱を注ぎすぎて、燃えつきてしまったのである。そこで「無期限の休暇」を宣言し、いったんすべての仕事を辞めて渡米。以降はニューヨークをベースに、活動の領域を広げていくことになる。

 彼女にとって、この“キャリア・チェンジ”の持つ意味は大きかった。この頃から、映画や演劇の世界(美術デザイン・衣装デザイン)に本格的に進出するようになる。

 そしてマイルス・デイヴィスのアルバム「TUTU」のデザインでグラミー賞(1987年)、映画「ドラキュラ」の衣装デザインでアカデミー賞(1993年)を受賞する。

 受賞こそ逃したが、演劇「M.バタフライ」(1988年/美術デザイン)ではトニー賞にノミネートされるなど、音楽・映画・演劇のエンタメ界3大アワードで世界的名声を得た。

 その後も、ワグナーのオペラ「ニーベルングの指環」(1999年)やシルク・ドゥ・ソレイユ「ヴァレカイ」(2002年)、北京五輪開会式(2008年)、ブロードウェイミュージカル「スパイダーマン」(2011年)の衣装などを手がけている。

 2012年に他界するまで生涯現役で、映画に演劇、サーカスにスポーツ祭典と精力的に仕事を続けた。

■やっと時代が石岡瑛子に追いついた?

 デザイナーとしての活動期間はちょうど50年。まさに日本が世界に誇る表現者の一人だ。だが、彼女の仕事のフィールドがあまりに幅広いということもあってか、これまでまっとうに評価されてきたとは言い難い。

 石岡瑛子の長年の友人である建築家・安藤忠雄氏は、“キャンバスからはみ出している人”と彼女を評した上で、私にこう語った。

「前田美波里のポスターでも、画面から飛び出してきそう。平面でありながら立体映像みたいでね。本人の表現力に加えて、その裏側にある意志の強さまで出ているわけです。石岡瑛子という人自身、飛び出してきそうでしょ? 社会からはみ出している。

 そんな飛び出してる人を受け入れられるのは、やっぱりニューヨークという場所だったと思う。あの人みたいなはみ出し方は、日本ではたぶん受け入れられないから」(『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』より)

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