■「痛みを感じる=痛むに向き合う」ではない

お二人ともつらいのは確かです。つらいからこそ相手を非難して改善を求めます。

桜花さんは、「私は十分我慢したり譲歩したりしているのだから、時間を作るのは彼が譲歩すべきだ」が基本的な主張ですし、海斗さんは「できる限り早く帰ろうと努力するなど最大限の努力をしている。これ以上どうしようもないし、それ以上求めるのはわがままだ」が基本的な主張です。

しかし、当然ですが、そんな批判で事態が改善されるのであれば、とっくに改善されているはずなので、改善はされません。それどころか、非難された側は、自分だって精一杯なのに非難されるのですから、さらにつらくなるし、相手を非難したい気持ちも高まります。

二人はそれぞれ痛みを感じているのは確かですが、自分の痛みにも相手の痛みにも向き合ってはいません。私には、本当の痛みに向き合わないでいるために、痛みを矮小化してとらえているように見えました。向き合わない痛みはどんなに浸っても緩むことはなく、逆に意識すればするほど痛みが増してきます。

つまるところ、二人が希望していることは、相手が変わることです。桜花さんは海斗さんが桜花さんと一緒に過ごす時間を増やすように変わること、海斗さんは桜花さんが海斗さんの現状を理解して不満を言わなくなるように変わることを求めています。

こういう方の特徴は、「どうしたらいいか」をお聞きになることです。その言葉の隠れた意味は「自分がどうしたら、相手の行動や気持ちを変えられるか」という意味です。しかし、それは詮無いあがきです。

というのは、仮に相手を変えるうまい方法があるのだとすれば、相手側にも自分を変えるうまい方法があるはずです。しかし、両方が相手を都合よく相手をコントロールできるというのは矛盾ですから、奇跡的に双方の欲求がバッティングしない場合以外無理なのです。

本当の痛みが何なのかは、本人の気持ちをゆっくり探ってみないとわからないですが、桜花さんなら、「一緒にいたいという気持ちと、一緒にいられる時間が少ない」という葛藤や、「海斗さんを好きな気持ちと、一緒にいる時間を作ってくれない(=自分が愛されていない)ことへの怒りや不安」「自分は我慢しているのに、その気持ちを分かってくれないことへの怒り」「好きなのに、このままでは海斗さんを嫌いになってしまいそうな不安」などが予想できますが、違うかもしれません。

いずれにしても本当の痛みは、「相手が○○してくれない」というような相手の行動ではなくて、自分の内面にある矛盾した気持ちのはずです。その葛藤する気持ちに浸ることができたら、痛みが少し減ります。願わくばパートナーも一緒にその気持ちに浸ってくれたら、とっても緩みます(それを共感といいます)。体が緩むとちょっと自由に動けるようになるのと同じように、気持ちが緩むとその分だけ考えも自由になります。一方、その意識の切り替えができないとそもそも気持ちが緩む前提がそろいません。

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