日韓問題を論じた箇所では、宗主国と植民地を巡る相克を描いた作家を紹介しました。占領された国の作家が宗主国の言葉で書く。作家にとって一番大事なのは言葉ですから、ほんとうに苦しい。逆に、占領した国の側の作家が、向こう側の人間の立場になって書く。これも、とてつもない経験です。

 そういう場所、極限状態で書かれた文学は、植民地について考えるどんな論文よりも、遠くに行くことができる。その時代や人々の心の奥ひだまで、言葉を届かせることができる。

 逆に言うと、誰も考えてないだろうなというところに行ってみると、すでに文学者が行っていることが多いんです。もちろん法学者や哲学者も考えます。けれど、一番早く一番遠くまで行けるのは、作家だと思います。彼らの言葉は「飛ぶ」ことができるからです。人間の戦場の一番最前線まで行くことができるのです、想像力を使って。

 たとえば、最近、ドストエフスキーの『地下室の手記』を50年ぶりに読み返しました。地下室に潜り込んでずっと文句を言っている中年男の話なんですが、読んでみると、精神科医の斎藤環さんが指摘した中高年引きこもりとそっくりだし、彼のしゃべっていることは、ネットのヘイトスピーチにそっくり。160年も前に、ドストエフスキーはそれらを批判的に描いていました。まるで、これから起こることを知っていたかのように。カミュの『ペスト』もそうですね。

――カミュ自身はペストそのものについて書くつもりではなかったのですよね。

 はい。終わったばかりの戦争についてのメタファーのはずでした。それが、完全にいまの感染症の話として読める。

――カミュがすでにコロナ禍の現場に行っていた、と。

 そう、そして、それだけではなく、いま、ぼくたちが言葉そのものに侵され、感染してゆくことの恐ろしさをも描いているように見えます。驚くべき想像力ですね。

 カミュは、当時の戦争に対して答えを出したのではありません。文学は、もっと遠い射程の言葉を持っています。だから、70年以上たって、まったく別の事態に対しても、一つの「回答」になることができる。

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正解のない問題ばかり…