文明の反対概念が「野蛮」である。野蛮とは「分解への傾向」のことである。人間が分散し、たがいに分離し、敵意をもつ小集団に社会が分断されるのが「野蛮な時代」である。政治的対立と国民の分断を私たちは「ふつうのこと」だと思っているけれども、オルテガはそれこそが「野蛮」だと言うのである。

 野蛮な人たちは人を説得しようとしない、自分の思想を情理を尽くして伝えようという努力もしない。ただ多数を制して、力まかせに強要する。説得や正当化を試みないのは、聴き手の知性や判断力に信を置いていないからである。

「野蛮な時代」を条件づけるのは、単にそこでは強力なものが勝つというだけのことではない。人々にことの理非正邪を判定する能力がないということである。

 政治家が有権者の知性や判断力に信を置かないとき、政治は野蛮なものになる。人々の見ている前で、実際に反対者を抑え込み、黙らせて、屈辱感を与えて、どちらが「強い」かを誇示してみせないと、人々にはどちらに理があるかわからない、それくらいに人々は愚鈍だと政治家が思っているとき、政治は野蛮になる。

■権力の私物化の実相

 私自身は論争ということをしない。絡まれてもやり過ごす。論争には意味がないと思うからである。私があることを述べた。それを「間違いだ」と言う人がいる。私の言明にはそれなりの根拠があり、私を誤りとする人の言明にもそれなりの根拠がある(はずである)。でも、どちらに理ありとするかは他の人たちが判断することである。世間の耳目を集めてから、殴り合ってみせて、勝敗の結果をご披露しないと、どちらに理があるかわからないだろうというのは論争当事者の思い上がりである。

 私は「自由な言論の行き交う場」の審判力を信じている。だから、私は私の言明を「言論の自由に行き交う場」に置く。他の人もそれぞれの持論をそこに置く。何年か何十年か経ったあとに、どれかが残る(何も残っていないかも知れない)。でも、それは私が決めることではない。言論の場が決めることである。私がそこに出て行って、他人の言論を叩き出す必要はない。消えるべきものは消えるし、残るべきものは残る。それくらいには私は長期的・集団的な叡智を信じている。

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