大洋打線は、7月13日の広島戦以来の先発サード・一茂を狙ってきた。初回、先頭の屋鋪要が三塁内野安打。次打者・高橋眞裕も三塁線にバントした。ファウルになると思った一茂は、捕球せずに見送ったが、ボールはラインギリギリでピタリ。直後、先発・西村龍次は2本のタイムリーと押し出し四球で計4点を失った。

 だが、「ミスはバットで取り返せ」とばかりに、0対4の3回、一茂は中越え二塁打を放ち、無死二塁。ところが、せっかくの反撃モードも、けん制タッチアウトでパーになり、野村監督を「野球センスがないな。ボーっとして。まるで宇宙遊泳するみたいな珍しい選手や」とボヤかせた。

 それでも一茂は本のファンから愛されていた。1点差に追い上げた7回1死二、三塁、一茂の打席で野村監督が代打・杉浦享を送ると、スタンドは一斉に大ブーイング。その後、ヤクルトは広沢克己のタイムリーで逆転勝ちしたが、勝利のヒーローも、一茂の強烈なインパクトの前に霞んでしまった感があった。

 翌92年1月、一茂は一大決心して、西伊豆で自主トレ中の中日・落合博満に押しかけ入門。新聞紙を丸めた紙ボール打ちなどの特訓を通じて、基本動作を学んだ。

 落合は「このスイングなら広沢や池山(隆寛)より怖い。池山なら10本や20本離されてても何とかなると思うけど、今のこいつでは10本も離されたら大丈夫かなと思うよ」と潜在能力を高く評価。一茂も「すべてが勉強になった。あとは自分しだい」と自信を深めた様子だった。

 だが、「人間関係をギスギスさせないためにも、(弟子入りに)行く前にコーチやワシに連絡が欲しかった」と不快の意を表した野村監督との溝はシーズン開幕後も埋まらず、一茂はヤクルトのラストイヤーを米1A留学という形で終える。そして翌93年、父・茂雄が監督復帰をはたした巨人へ。

 一茂が改めて“持っている男”であることを示したのが、移籍1年目の4月23日の阪神戦。4回に放った左越えソロが、なんと、セ・リーグ通算3万号になった。

 くしくも父はルーキー時代の58年9月19日の広島戦で一塁ベースを踏み忘れた結果、本塁打を1本損しており、これが回りまわって息子の3万号をもたらした?

 子供の頃、父に野球観戦に連れてきてもらったのに、その存在を忘れられ、球場に置き去りにされた息子が、35年前の父の“忘れ物”を取り戻したとも言える不思議な巡り合わせだった。

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“怒りのヤジ封印弾”