上出:武田さんも言っているし、ぼくもそうなんですけど、「いよいよこのわかりやすさ至上主義、きつくないですか?」と言っている人が出てきていますよね。もしかしたら、その時代時代にそう言う人はいたのかもしれない。だけど、わかりやすさ至上主義は拡大しているように見えます。これはどこかで頭打ちになるのか、あるいはひどいディストピアにたどりつくのか。

武田:今は自分で選択肢を増やす余裕がないんです。時間的にも、経済的にも。かといって、これから好景気が待っているとも思えない。ますます、選ぶための手間が削られると思います。どうしたらいいんでしょうかね。

上出:楽なほうに流れるのが人間なので、作り手も受け手も互いにわかりやすさに溺れていくのはいかんともしがたい……。

武田:「おかしいな」と思ったら、「おかしい」と言っていくことだと思うんですよ。たとえば散々言われているけれど、毎年夏になると、「24時間テレビ」的なものの罪は大きいと感じますね。

上出:というと。

武田:別の本で書いたことがあるんですが、ある年、番組内の企画で、障害を持つ人が登山に挑んで、残念ながら未登頂に終わった時、総合司会者が「○○さんの頑張りは日本中に伝わりました。皆さん、大きな拍手を送りましょう」なんて言ったんです。それにどうにも腹が立ちまして。だって、悔しいはずなんですよ、登頂できなかったんだから。その人にカメラを向けて、「悔しいです」と言わせない、あの雰囲気。悔しさを表明することすら剥奪されているのかと思ったら、こんなに暴力的なことはないと思ったんですよ。

上出:『紋切型社会』に書かれていましたね。スイッチを押したように泣き始める総合司会者って。

武田:それって、失礼だし、つまらないじゃないですか。

上出:つまらないですけど、視聴率がいいということは多くの人はつまらないと思っていないということじゃないですか。

武田:ナンシー関さんが、「24時間テレビ」について「どうかと思うところはいろいろあるけど、でも泣かされちゃったから--で口をつむぐのは間違いじゃないか。泣きながら『全然おもしろくなかった』と言ってもいいのに」と。それが大事なんだと。

上出:なるほど。

武田:あの番組を見ると涙が出てきますね。泣きながら、「マラソンランナーが毎年必ず8時にゴールするなんておかしいよ」と言えばいいんじゃないかな、と。自分自身の体感すら疑えばいいんじゃないかな、って。

上出:「泣く=肯定」ではない、と。でもやっぱり泣くんですね(笑)。

武田:だって、企画力のある人が、ツボを知っている人たちが、泣かせるために作っているものを浴びたら、それは泣きます。その後なんです。ある作品を見たあとに、今与えられた感情はなんだったんだろうと考える。そうすると世の中の複雑性に気づいたり、メディアから提供されるものとうまく付き合える場面が、もう少し増えてくるんじゃないかなと思うんですけどね。

次のページ
スタジオジブリ作品が多くの人に受け入れられる理由