南海時代に3度の本塁打王に輝き、歴代3位の567本を記録した門田博光も、天理高時代は4番だったのに、本塁打はゼロだった。

 自著「不惑の挑戦」(海越出版社)によれば、中学時代に身長150センチ程度だった門田は、大した実績もなかったそうだが、たまたま同校が野球を強化しはじめた時期と重なり、入学者が増えた幸運もあって合格。同期生は70人もいた。

 連日の猛練習で脱落者が相次ぐなか、真面目で忍耐強い門田は、不断の努力の末、競争を勝ち抜き、2年夏に7番ライトでレギュラー獲得。3年夏には4番センターとして甲子園出場をはたした。

 当時の門田は、169センチ、65キロと小柄で、確実なミートを身上とする中距離打者だった。甲子園出場を決めた65年の紀和大会決勝、県和歌山商戦では、初回2死三塁、一塁左に転がした緩いゴロが先制のタイムリー内野安打になるという俊足ぶりも披露している。

 甲子園の丸子実(現丸子修学館)戦では、2点を追う9回2死から右中間に三塁打を放ったが、後続が倒れ、無念の初戦敗退。0対0の8回2死二塁の先制機に打席に立ちながら、二塁走者が隠し球でアウトになり、スリーアウトチェンジという珍事も体験している。

 高校時代は本塁打ゼロに終わったが、クラレ岡山時代にプロを目指して、高校時代から続けていた筋トレと素振りに一層励んだ結果、後の“不惑の大砲”が誕生する。

 79、84年に本塁打王を獲得し、通算349本(歴代31位)の掛布雅之も、習志野高時代は、2年夏に4番打者で甲子園に出場しているにもかかわらず、3年間本塁打はゼロだった。

 2年生当時172センチ、66キロとやや小柄だった掛布は72年夏、東関東大会8試合で三塁打3本を含む11安打で9打点を記録するなど、典型的な中距離打者だった。甲子園の東洋大姫路戦でも、初回1死三塁のチャンスに、流し打ちの左前タイムリーを放ち、2点目を叩き出している。

 3年夏は捕手の阿部東司(巨人・阿部慎之助2軍監督の父)に4番を譲り、3番ショート。夏の県大会4試合で三塁打2本、二塁打2本の19打数8安打3打点を記録した。

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他にもイメージより少ない“意外”な選手たち