その2008年は、ナイツにとって飛躍の年となった。『お笑いホープ大賞』『NHK新人演芸大賞』という2つの新人賞レースを制し、乗りに乗った状態で年末の『M-1』を迎えた。

 その快進撃のきっかけは、いまや彼らの代名詞となった「ヤホー漫才」を発明したことだ。塙宣之がインターネットの「ヤホー」で調べた知識を披露したいと切り出すと、土屋伸之がすかさず「ヤフーね」と訂正する。そこから塙は間違いに間違いを重ねて、際限なくボケを繰り出していく。

 この漫才ができるまで、ナイツはさまざまな形の漫才を作り続け、試行錯誤を重ねていた。その過程の中で、塙は自分たちの漫才の映像を見返して、どこがウケていて、どこがウケていないのかを確かめようとした。

 その過程で、ちょっとした言い間違いの小ボケのところで客が一番笑っていることに気付き、それだけを詰め込んだ漫才を新たに作った。すると、大きな笑いを取ることができた。こうしてヤホー漫才が完成した。

 また、彼らの強みは、漫才協会に所属して数多くの舞台に立っていたことだった。『M-1』が吉本芸人に有利だと言われるのは、吉本興業には自前の劇場があり、吉本芸人たちはそこで日常的に数多くの舞台に立って、ネタを磨くことができるからだ。ほかの事務所ではそれができないため、どうしても漫才の精度が落ちてしまいがちなのだ。

 だが、ナイツは寄席を自分たちの主戦場にすることで、吉本芸人に負けないほどの経験を積むことができた。そうやってネタを洗練させた甲斐あって、『M-1』でも結果を出すことができたのだ。

 ナイツの塙は、もともとダウンタウンと電気グルーヴが好きで、どちらかと言うと「とがった笑い」を好むタイプの芸人だと思う。だが、そんな彼が浅草の寄席で中高年の観客に向き合い、そこで修業を重ねることで、大衆的な笑いの感覚を身につけた。塙のとがった感性が浅草の風土と結びつくことで、くだらない小ボケを執拗に連打するという大衆的かつ前衛的な漫才が生まれた。

 ナイツがテレビに出るようになってからは「浅草で修業をしていた」ということが1つの売りになった。彼らは浅草の師匠たちのエピソードをテレビで披露して、世間に知られていない浅草演芸界の実像を浮き彫りにして笑いを取った。

 今では浅草も活性化して賑わっている。浅草の演芸場で腕を磨くために、漫才協会に入る若手芸人も増えた。こういう状況になったのはナイツがその礎を築いたからだ。

 彼らの師匠である内海桂子さんは8月22日に亡くなってしまったが、ナイツはその遺志を継ぎ、これからも「浅草の星」として浅草演芸界を牽引する存在となるだろう。(お笑い評論家・ラリー遠田)

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ラリー遠田

ラリー遠田

ラリー遠田(らりー・とおだ)/作家・お笑い評論家。お笑いやテレビに関する評論、執筆、イベント企画などを手掛ける。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』 (イースト新書)など著書多数。近著は『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)。http://owa-writer.com/

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