すこし前に流行った行き先不明の「ミステリートレイン」状態である。

 京都大の入試は京都市内の大学施設では行われなかった。多くの学部は予備校や高校で試験を実施した。工学部は宇治市内のキャンパスに急造したプレハブ校舎で試験を行っている。それでも警戒を緩めなかった。このとき、京都大総長だった奥田東氏は入試妨害に備えていた。次のようにふり返っている。

「京大は幸い学部別に合格を決めておりますのでね、つぶされたら、つぶされた学部は、試験をやりなおすんだというんで、試験問題を全部二重につくっておきましてやったんです。(略)試験場にあらかじめ入って阻止する、反対学生が教室に入って阻害するってこともありうるわけです。だから、各試験場でね、全部宿直したわけです。教授が分散して宿直をやりました」(『「大学紛争」を語る』大崎仁編 有信堂高文社 1991年)

 九州大では入試を「阻止」されるという、とんでもないことが起こった。

 試験は2日間にわたって行われたが、荒れ模様だった。大学本部の屋上スピーカーから「九州帝国大学破壊、民青打倒」とがなりたてる。一方、「入試実施、中核派は出ていけ」とシュプレヒコールで応戦する。受験生にすればやかましくてたまったものではない。大学教職員は「受験生に心理的な影響を与えるからやめるよう」に説得するが、聞き入れられず、入試が無事にできるか、不安になる。

 そして、試験2日目。試験会場が「粉砕」されてしまった。受験誌が伝える。

「ついに、不安が現実となった。教養部本館が反日共系中核派約二〇人に封鎖され、法・経両学部の午前の入試は中止、翌五日の午後に延期となった。(略)約千七百人の両学部の受験生は九大当局が、あらかじめ用意しておいた、予備校九州英数学館に、三十台のバスでおもむき、午後から、理科の試験を受けた」(「螢雪時代」1969年4月号)

 東京外国語大では1次、2次試験に分かれていたが、1次試験は学生活動家の妨害を恐れて中止する。2次試験では外国語、数学、国語、社会の4教科をたった3時間で行うという荒業を使った。試験所要時間は例年の半分以下である。

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