京都大学のシンボル・時計台とクスノキ(撮影/堀内慶太郎)
京都大学のシンボル・時計台とクスノキ(撮影/堀内慶太郎)

 神戸女学院大名誉教授で思想家の内田樹氏と、詩人でフェミニストの内田るんさんが、共著『街場の親子論』(中公新書ラクレ)を上梓した。同書では内田親子がお互いの生きざま、考え方を率直に語り合っている。

 このなかで、内田樹氏が、1969年に京都大を受験したときの様子について、作家の高橋源一郎氏とのやりとりを交えながら、次のように描いている。

 ―――二人とも69年に京大受験して、二人とも落ちたんだよねという話が出ました。そして、入試の前の日に雪の中、京大構内に行ったでしょ、という話になって、あのとき京大全共闘の人たちが火炎瓶を投げていて、それが雪の降りしきる時計台の前をオレンジ色の弧を描いて飛んで行くのが、すごくシュールな光景だった……という思い出話をしたら、源ちゃんが「僕はあのとき火炎瓶を投げる側にいたの」という驚くべき話をしてくれました。受験生が「入試粉砕」ってないよね。いや、あるか―――

 内田氏は都立日比谷高校を中退して大学入学資格検定(大検、現在は高等学校卒業程度認定試験=高認)に受かって、京都大を受験した。高橋氏は灘高校に通っており、内田氏とは同じ学年になる。

 69年、東大紛争の影響で東京大の入試が中止になったことを受け、他大学でも一部の学生活動家が「入試粉砕」を叫んでいた。そこで、多くの大学は入試日に警官隊、機動隊を導入し警備態勢を強化していた。

 なかでも京都大では、内田氏が述懐するように、構内に火炎瓶が投げ込まれたこともあって、厳しい厳戒態勢を敷いており、試験会場は入試前日に発表されるという緊迫した状況だった。内田氏がこうふり返っている。

―――京大全共闘が「入試粉砕」闘争をしていたので、学内での入試が不可能になっていて、京大当局が、どういうかたちで入試を実施するか、場合によっては入試中止になるかを前日構内で発表するということになっていました。だから、受験生はみんな前日に、京大までそれを調べに行ったんです―――(『街場の親子論』)

 このうち、京都大薬学部は当日、集合場所を設けて、そこから受験生をバスで会場に移動させている。受験誌がこんなリポートを記している。

「バスの行先がわからないために、報道関係の車が、このバスを追おうと待機する。やがてバスが出発。付き添いの父兄の同乗は禁止されており、また行く先もわからないとあって、父兄はバスの外から激励のことばを、自分の子どもや兄弟にかけていた。行先も知らない受験生を乗せたバスは走りつづけて、たどりついたのは私立京都商業高校。車でここまで追ってきた父兄も、この門前でシャット・アウト」(「螢雪時代」1969年4月号)

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