練習の大半を打撃練習に割いて作り上げた強打のチームは、福岡大会準決勝でセンバツ出場の小倉に7対0と大勝するなど、チーム打率3割3分3厘をマークして、初の甲子園へ。出発時は「第1戦だけ勝てばいい」が目標だった。

 初戦でいきなり優勝候補の高松商と当たり、3回にエラーで先制される苦しい展開も、6回に四球、盗塁、内野安打に敵失を絡めて同点。その後は2年生左腕・上田卓三が低めを丁寧に突き、センバツ4強左腕・小坂敏彦との投手戦に。そして、小坂に疲れが見えた延長13回、池田和浩のサヨナラタイムリーが飛び出した。

 甲子園初勝利で波に乗ったチームは、2回戦の東海大一戦で22安打を放ち、11対1と大勝。準々決勝の報徳学園戦も、1対2の9回1死から幸運なボークで追いつき、延長10回にサヨナラ勝ち。準決勝の秋田戦は、連投疲れの上田が3点を許す大苦戦も、5回に瀬口健の満塁の走者一掃の三塁打で逆転すると、9回無死満塁のピンチも本塁併殺で切り抜け、4対3で逃げ切った。

 そして、決勝の相手は、大会屈指の本格派・木樽正明と黒潮打線の銚子商。スタミナが心配された上田だったが、打者のタイミングを外す頭脳的な投球で、木樽と互角に投げ合う。

 両チーム無得点で迎えた7回、三池工は内野安打と四球で2死一、二塁のチャンスに、8番・穴見寛が左前タイムリー。さらに捕逸で1点を加えた。上田も8回2死二塁のピンチをかわし、2対0で完封。原監督は「よもや勝てるとは思わなかった。選手には“甲子園に来て暴れろ。それから結果を見よ”と言った」と無欲の勝利を強調した。

 2年前に死者458名の悲惨な爆発事故が起きた炭鉱の町は、地元チームの快挙に大きな勇気を貰い、沸き返った。

 その後、原監督は、東海大一戦が縁で東海大の創立者・松前重義氏に招かれ、系列校の東海大相模で一時代を築いたのは、周知のとおりだ。

 公立の進学校で、1日2時間しか練習できないハンデを克服し、甲子園でユニホームの色にちなんだ“青い旋風”を起こしたのが、94年の長崎北陽台だ。

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得意球の不調が吉と出る!