93年には父親、カブキとの一騎討ちを2度行い、どちらも反則裁定による1勝1敗の結果を残した。壮絶な試合は語り草になっており、その中でも何度となく毒霧殺法が試合の流れを変えた。額を割られ大流血したカブキが噴き出す血をムタの体にかけるなど、口からの毒霧以上のインパクトも刻まれた。

 カブキが主戦場とした全日本と異なり、当時ムタのいた新日本では「毒霧は技の1つ」という認識で試合中の毒霧使用でも反則を取らなかった。毒霧で相手の動きを止めてからのシャイニング・ウィザードなど、フォールへ向けての一連のムーブを確立できた要因の1つにもなったのは間違いない。

「ムタは毒霧を見た目だけでなく、攻撃としての側面を併せ持つものに昇華させた」とカブキからの評価は高い。

 死闘を行い、毒霧に対する考え方や哲学の違いもある2人だが、晩年にはタッグ結成もしている。

 カブキとムタで共通しているのは、見え方へのこだわり。08年6月16日付『Gスピリッツ』親子対談で語り合っているが、色など見栄えの芸術性などを求めていたという。

 カブキ「シャワー中にライトがあったんで、そこにフッと水を噴いてみたら、虹が流れた。“ああ、これだよ”って。試合場のライトを全部つけて、いろんな色を作ってみて、全部噴き上げて試してみた。赤とグリーンが一番キレイにスーッと溶けた。赤は血の色だから最後にしようと。最初にグリーンを手に噴きかけて、指を曲げながらゆっくりと挙げていくと、アメリカのお客は気持ち悪がってウワーッと沸くんだよね。そうやって自分の中でキャラクターを作り上げていった」

 武藤「黒師無双(武藤の別人格の1つ)で黒や白の毒霧をやったりしたけど、やっぱり見映え悪かった」

 カブキとムタに続く世代の毒霧使いとして登場したのがTAJIRI。

 デビュー後、国内外いくつかの団体を経て、米国ECWでカリスマ的人気を得た。ECW崩壊後は世界最大団体WWEで通算5度のタイトル奪取など、団体の顔と言えるほどになった。WWE退団後は帰国してハッスルで活躍していたが、09年に新日本参戦、同年夏のG1クライマックス出場を果たす。G1初参戦時には「毒霧を使用しない」約束状にサイン、使用した場合は反則で試合終了となっていた。

次のページ
大仁田厚の化身グレート・ニタも…