重要なのは、国民一人ひとりが、「そこから自分をどう解放していくか」を考え、自分という個(人)を、このフレームの外でつくること。つまり、学校とは別に、個人が「生きる力」をつける機会を持っていることが、人が育つ上で最も大切なことだと、私は考えている。

 義務化されていない時間をいかに有効に使い、その人が人格形成していくか。それが、子どもの教育にとって必要不可欠であるはずなのに、日本の大人たちはそこから手を引いているように見える。

「学校は一律的だ」「子どもの個性を伸ばしてほしい」と考える親も少なくないらしいが、学校というのは、基本的にはみんなが同じフレームで学ぶ場所。一人ひとりが持っている個性を尊重することは大切だけれど、そこで個性はそれほど育たないし、育てることを学校に求めなくてもいいのではないか。

 フレーム化教育は、一つの方向性を示してくれるということであり、それ自体は否定すべきものではないと、私は思っている。

 先生がみんなに同じ内容の授業を与えている場合、その中身は単なる「情報」である。その「情報」を自分のものにするには、自分の力が必要になる。そして、学校以外の、誰にも制約されない時間やだらだらした時間を使って考え、遊びや家庭での経験とシンクロさせて自分の中に落とし込んでいく、というプロセスも必要だ。個性は、そうやって伸ばしていくものであり、余暇の時間をしっかり使うことによってしか、自分自身は成長しないのではないか。

 余暇の使い方を学ぶことこそが、人間をつくり、個性をつくる。それが私の持論である。

 幼少期、やんちゃだった私は、学校の勉強はとりあえずこなしつつ、それ以上に、自分の自由な時間をどうつくれるかということを考えていた。学校以外の友達と遊んだり、ケンカしたりしながら、生き方の大事な部分を学んできた。けれど日本では、友達関係さえも学校によってフレーミングされがちだ。

 日本の大人たちは、子どもたちがどうすればフレームの外の時間や外の人間関係を確保できるかを議論すべきなのに、フレームを巨大化させることばかり考えてはいないだろうか。そうなると、子どもは四六時中囲い込まれ、教員は疲弊し、学校の負担も増えてしまう。

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