なかには「僕を殴ってください」と自ら志願する選手もいた。体罰が当たり前の時代だったからこそ、「殴られない」=「期待されていない」と誤解されたのだという。

 甲子園初出場を果たしてから、盛岡大付には県外から選手が集まるようになった。だが、中学時代から「スター選手」と言われるような選手は来なかった。“特待生”として選手を入学させる制度が盛岡大付にはなかったからだ。実際、沢田さんが「声をかけた」という西武ライオンズの中村剛也(大阪桐蔭)やダルビッシュ有(東北)といった中学からの有名選手が同校に入学することはなかった。

 3連覇がかかった97年の夏の岩手大会準決勝で敗れたとき、沢田さんは現状の指導法の限界を悟った。例年集まる選手の大半は、中学から強豪の硬式野球クラブに所属していたものの、地元の強豪校ではレギュラーを取れないと考えている選手たち。彼らが抱えているのは、「野球の実力についてのコンプレックス」だった。

「選手たちのコンプレックスを取り除かなければ、本当の意味での成長はない」

 そう考えた沢田さんは、「根性論ではなく、子どもを褒め、共感してあげる指導」へとやり方を変えていったという。

 例えば、練習中に選手がミスをすると、オーバーリアクション気味にその場で倒れ、死んだふりのような姿を見せて選手を笑わせた。試合中にピンチの場面を迎えると、投手の緊張をほぐそうと、伝令の選手にお金を握らせ、「ここで抑えたら1000円だ」などと冗談を言った。そしてなにより、練習でも試合でも選手を褒める。褒められた選手は、うれしさからさらに努力を重ねるようになった。

 指導を変えた直後こそ結果は出なかったが、それでも6年後の2003年に春の選抜で甲子園出場を勝ち取ることができた。体罰がなくとも、強くなれる――。だからこそ、沢田さんは体罰がなくならない現状を憂いている。

「厳しく指導すれば、たとえそれが体罰であってもチームが強くなる可能性は確かにある。しかし、時代とともに人の考えも、社会の価値観も変わる。野球の監督は、会社に例えるならいわばメンターなのです。ただ練習メニューを指示するトレーナーであってはならない。気持ちの面でも選手を引っ張っていけるような人格者でなければいけないのです」

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「勝利」と「教育」の矛盾