当時稲垣足穂は、すでに68歳になっていた。処女作の『チョコレット』『星を造る人』が「婦人公論」に発表されてから47年、代表作『一千一秒物語』から数えて46年が経っていた。

 その間、「文藝春秋」「新潮」「新青年」「文藝時代」などに作品を発表し、『星を売る店』『天体嗜好症』『WC』などを出版していた。

 ただ、昭和5(1930)年、佐藤春夫が、稲垣足穂が嫌った菊池寛のことを褒めると、「文藝春秋のラッパ吹き」と佐藤を詰り、そのまま郷里である明石に帰り、以後、出版界からはほとんど遠ざかって、同人誌などに作品を発表するばかりだった。

 ところが、昭和43(1968)年、三島由紀夫が『小説家の休暇』で「昭和文学のもっとも微妙な花の一つである」と書いたことで脚光を浴び、日本文学大賞を受賞することになったのだ。

 足穂は「週刊文春」に次のように述べている。「ボクの小説にというんだったら、断りましたよ。小説なんてのは恋愛とおなじで認められたら終りじゃないか。(中略)『少年愛の美学』は前人未到のエッセイですよ。プラントンの『饗宴』以後、最初のworkですよ。数世紀は生きのびる」

 それでは、著者自身が「数世紀は生きのびる」と言う『少年愛の美学』とは、どのような内容の本なのか──それは是非、読んで熟読玩味して欲しいのだが、澁澤龍彦は、本書を高く評価していう。

「(本書は)男女の二元論として考えられたセックスの昇華された形であるところの、一元論的エロスの絶対的世界を思考しているものと解すべきものであって、氏の性愛的資質は、そのまま氏の美学における抽象的衝動と結びつくのであ」って、「実践的なホモセクシュアルのすすめなどと思ったら、それこそとんでもない見当違い」であると。

 とにかく、本書は、「性愛」を哲学的に攻究するには不可避の哲学的示唆に富む名著に間違いはないのである。

 ところで、足穂はアルコール中毒で、飲み始めたら止まらない人だった。弟子のひとりである折目博子さんは、文春のインタビューに、足穂が授賞式に出たらどんなことになるかと心配で仕方がないと訴える。

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