日米で旋風を巻き起こしたドジャースの野茂英雄 (c)朝日新聞社
日米で旋風を巻き起こしたドジャースの野茂英雄 (c)朝日新聞社

 今では当たり前になったメジャーリーグへの移籍だが、かつては日本人選手やファンにとっては、異次元のプレイヤーたちが集う“憧れの場所”にすぎなかった。

 だが、日本人選手もそこで存在しうると証明したのが野茂英雄だった。

 野茂が近鉄からドジャースに移籍してから25年の時が経ったが、その時のフィーバーぶりは、もはや社会現象といっていいものだった。多くの日本人がアメリカで躍動する野茂の映像を観て歓喜し、勇気を与えられるなど、大きな影響を受けた。

 そして、当時アメリカに住む日本人にとって、それはなおさらだった。

 野茂がドジャースに移籍したのが1995年。その前年の1994年にアメリカの本土ではないものの、仕事のためサイパンでの生活を始めた高奥哲さん(52歳)も多大なエネルギーを野茂から授かった一人だ。

 サイパンに移住した当初は初めての海外生活ということもあって、かなりの“ホームシック”になったという高奥さん。当時はインターネットなども普及しておらず、ひとたび海外に出ると日本の情報を手に入れるのが難しい時代であった。そんな中で数少ない日本の話題に触れることが出来る場所が、近所にある日系のビデオレンタル店に置いてあるスポーツ新聞。当時は日本のことを知るために、そのビデオレンタル店に足繁く通ったという。

 80年代後半、野茂がのちに入団することになるドジャースの本拠地で、当時エースだったハーシュハイザーの投球を現地で観戦するなど、メジャーリーグが好きだった高奥さんだが、「まさか日本人がメジャーで活躍する日」が来るとは、その時は想像もしていなかった。

 だが、近鉄からメジャーに渡った野茂は、現地で懐疑的な見方もある中で、センセーショナルな活躍を披露することになる。それを、前述したビデオレンタル店のスポーツ紙で知った高奥さんは、当時の興奮をこう振り返る。

「とにかく嬉しかった。同じ時期にアメリカに渡った野茂の活躍を知って、自分も頑張ろうと思いました。私は西武ファンだったので、近鉄にいた時は敵でしたけど、アメリカに行ってからはとにかく心の底から応援していました。野茂がいなかったら、日本に帰国していたかもしれないと、今でも本当に思っています」

 高奥さんは同じ時期にアメリカに渡り活躍する野茂にシンパシーを感じたと同時に、自身がメジャーリーグを観戦した球場で日本人投手が活躍する姿に、さらなる感銘を覚えたという。

 野茂がアメリカでブレークを果たすと、日本では野茂のドジャースTシャツを着る人の姿をよく見かけたが、サイパンでもそれを欲しがる日本人が多かったとのこと。高奥さんもそのTシャツを何とか手に入れたかったようだが、サイパンでは購入が難しかったらしく、野茂Tシャツを着ていた知り合いの女性が「とても羨ましかった」という“苦い思い出”もあるそうだ。

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「よく野茂のフォームのマネを目の前で…」