池乃めだかや山田花子、酒井藍、帯谷孝史といった面々の容姿の特徴も盛んにいじられ、それが不思議と殺伐としていない、人情味あふれる笑いをもたらしている。容姿のブサイクもおもろい個性だというコンセンサスが、役者同士にも、見る者にも共有されているからだろう。稲田がもし新喜劇の座員になれば、別格の武器を持った者として、一生、安定した人気を維持できるのではないか。

 ただ、彼も吉本もそういう方向はとらず、全国区で勝負する道を選んだ。それはややリスキーなことでもある。前出のコンセンサスがないところでは、今の時代、容姿いじりはぎくしゃくとした空気を生んでしまう可能性もあるからだ。

 実際、東京の芸人だと、ビートたけしクラスの大物くらいしか稲田をまだいじりきれていない気がする。これは草薙についてもいえることで、太田プロの先輩でもある有吉弘行レベルの腕がないとうまく生かせない。これ以降の世代のMCでは、忖度による萎縮も見受けられ、笑いという文化を考えるうえではモヤッとした気分にもさせられるのだ。

 もちろん、容姿いじりなどなくなればいいと思う人もいるだろう。筆者も、芸人同士もしくは見る者とのあいだにコンセンサスのない容姿いじりはつまらなく感じる。しかし、笑いとは多様性のなかで生じるものだ。容姿にせよ、言動にせよ、変わっていることを面白がり、愛情をもって共有しあうのは不幸なことではない。

 思えば、志村の笑いもそういうものだった。彼がファミリーによるキャラクターコントにこだわったのも、新喜劇同様、仮想空間を築き、型を作りこむことにより、変わっていることを面白がるというコンセンサスが得られやすくなるからだろう。

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特訓を受けた「プロ」だから笑える