中村さんがさっそく向かったのは、火野が日中戦争の最中、『麦と兵隊』などの「兵隊三部作」の印税で建てた河伯洞だ。そこで待っていた従兄弟で火野の三男・玉井史太郎さんと盛り上がったのは、祖母・マンさんについての話題だった。中村さんは祖母のこんな言葉を忘れられないという。

「身を捨てて、みんなのために尽くせ。弱いものをかばわんと、世の中は成り立たんって話をいつもしてましたね」

 マンさんは、火野の母親でもある。当たり前のことにあらためて気づかされた。火野もこんな母親の言葉を日々耳にしながらこの場所で育っていたのである。自らも女沖仲仕として若松港で仲間たちと汗を流したマンさんは、さぞ熱いメッセージのシャワーを火野の上に注いでいたことであろう。

 自分のことよりも、困っているアフガニスタンやパキスタンの人々のために働き続けてきた中村さんと、戦時下の中国やフィリピン、そしてビルマで弱い立場に追い込まれた地元の人たちと対等な目線で向き合おうとしていた火野の姿が私の中で重なり合っていた。

■「平和の意味」とは

 この日、中村さんが最後に向かったのは、高塔山だった。火野の言葉が刻まれた碑を見ようというのだ。火野が行軍のときの自身の心象を一輪の菊の花に託した詩「泥によごれし背嚢にさす一輪の菊の香や」と書かれた文字をじっと見つめたまま、中村さんは無言だった。

 北九州が一望できる展望台で中村さんが語った一言が、忘れられない。

「やっぱり、いろんな意味でここが出発点ですね」

 後日、私は中村さんに『インパール作戦従軍記』(集英社)という本を送った。インパール作戦に従軍していた火野の従軍手帳を翻刻し、私が解説を寄せたものだ。まもなく中村さんから郵便物が届いた。返礼として中村さんの自著とともに手紙が添えられていた。そこにはこんな一文があった。

<改めて あしへいにふれ、平和の意味をかみしめています>

 それが中村さんとの最後のやりとりとなった。中村さんに「平和の意味」をきちんと聞きたかったと心の底から悔やまれる。

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中村さんに最初に会ったときの言葉…