ちなみに、彼女は高等部で2年先輩だった尾崎豊とも親交があったという。青学はもともと芸能、特に音楽との相性がよく、逸材を送り出してきた。筒美京平に桑田佳祐、長戸大幸、槇原敬之。そして「学生時代」(ペギー葉山)や「Ya Ya (あの時代を忘れない)」(サザンオールスターズ)のように、キャンパスを舞台にして、出身者によって作られ歌われたヒット曲も存在する。

 また、途中からスポーツも盛んになった。転機は、PL学園の桑田真澄が早大進学をほごにして巨人入りしたことだろうか。これにより、PLと東京六大学野球との関係がこじれ、その有望選手が東都大学野球、なかでも青学に流れるようになった。そこから野球部が強豪へと飛躍したのだ。

 箱根駅伝において、伝統校を押しのけるように大躍進を遂げた陸上競技部の姿にも重なる。

 こうしてみると、青学は80年代に変化を迎えたといえる。学園紛争が過去のものとなり、若者が金持ちになったこの時期、苦学やバンカラといったイメージは古びて、裕福でおしゃれな大学生像がむしろ主流となった。その新しいイメージを象徴していたのが青学だったのだ。

 そうなると、それまでは入学してこなかったタイプの学生も増える。たとえば、裕福でおしゃれなだけでは飽き足らず「目立つ」のが好きというタイプだ。78年にデビューしたサザンの桑田あたりはその先駆けだったのだろう。

 そして、女子では川島なお美が口火を切り、蓮舫や木佐彩子、小林麻耶、滝川クリステル、田中みな実が続いた。メディアに登場する青学レディには、木佐や田中のような帰国子女や、蓮舫や滝川のように一方の親が外国人という人も多い。そういうタイプが溶け込みやすい校風でもあるのだろう。

 そんな先輩の活躍を見て、憧れる後輩も出てくる。実際、田中が女子アナを目指したきっかけは、同じテニスサークルの先輩・小川彩佳の影響だ。

 また、放送作家で青学OGの山田美保子によれば、田中は4年生のとき「青学チャイムズ」の「マスコミ業界に内定の準ミス青山がご案内」というグラビア記事に登場していたという。そういう実績アピールが呼び水になり、伝統が作られていくわけだ。

 田中はいまや写真集が女性にバカ売れするほどのポジションだし、新井はミス青山からフリーアナのトップまで駆け上がった。滝川などは将来、ファーストレディーになるかもしれない。

 裕福でおしゃれで目立つだけでなく、現代女性にとっての新たな出世モデルも提示する青学レディ。彼女たちの勢いはまだまだ続きそうだ。

宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など

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宝泉薫

宝泉薫

1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など

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