巨人の呂明賜である。アマ通算112本塁打の“アジアの大砲”は、イースタンで三冠王になるなど、2軍で文句なしの結果を出したが、1軍にガリクソンとクロマティがいたため、背番号「97」の“第三の男”は、開幕から2カ月余りも不遇の日々が続いていた。

 だが、6月13日の阪神戦(甲子園)で、クロマティが死球で右手小指を骨折したことから、1軍デビューのチャンスがめぐってくる。

 翌14日のヤクルト戦(神宮)、6番ライトでスタメン出場した呂は、初回にギブソンから初打席初本塁打の3ランを放ち、勝利に貢献。以来、デビューから17試合で打率3割7分9厘、10本塁打、18打点と打ちまくる。7月17日の大洋戦(横浜)では、巨人の第51代4番も務めた。その打棒は“ルー台風”ともてはやされ、オールスターにも王貞治監督の推薦で選ばれた。

 呂を出場させるため、当時2人だった外国人枠を増枠するほどの人気ぶりで、王監督も「これだけ騒がれたのは、呂がホームランを打つからだけじゃない。ああいう見るからに迫力のある姿で、バッティングとはこういうものだと示したからだ」と最大の賛辞を贈っている。

 だが、オールスター後は、速球で内角を突き、外の変化球で仕留める攻略パターンを克服できず、シーズン後半は5本塁打と失速。翌89年もガリクソン、クロマティの陰に隠れ、18試合に出場しただけ。その後もほとんど2軍暮らしのまま、91年オフに退団した。現在のような外国人枠があれば……と惜しまれる一人である。

 あっと驚く衝撃デビューをはたしたものの、素行不良が目に余り、シーズン途中退団という残念な結果に終わったのが、95年にダイエーに入団したメジャー通算220本塁打のケビン・ミッチェルだ。

 4月1日の開幕戦、西武戦(西武)、1回無死満塁のチャンスで初打席に立ったミッチェルは、1ボールから郭泰源の2球目、外角スライダーを一振。強烈なラインドライブがかかった打球が、ピンポン玉のように左翼席に飛び込んでいった。

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“金と共に去りぬ”と皮肉られる結果に…