野球に対する姿勢は日本でも高く評価されている桑田真澄 (c)朝日新聞社
野球に対する姿勢は日本でも高く評価されている桑田真澄 (c)朝日新聞社

 新型コロナウイルス拡大の影響でプロ野球の開幕時期が不透明な状況が続くが、野球を観ることが出来ない今、懐かしいプロ野球のニュースで“野球ロス”を少しでも和らげてもらいたい。そこで『プロ野球B級ニュース事件簿』シリーズ(日刊スポーツ出版)の著者であるライターの久保田龍雄氏に、過去のプロ野球の思い出を振り返ってもらった。今回は「助っ人たちを感銘させた日本人選手編」だ。

【写真】フォーム改造で“大化け”した選手たち

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 今から半世紀前のプロ野球は、南海捕手時代の野村克也がブレイザーから“シンキング・ベースボール”を学んだように、メジャーで活躍した助っ人は“野球の師匠”でもあった。

 月日は流れ、1980年代以降、日本人選手の技術を認め、“弟子入り”する助っ人も現れるようになった。

 “師と”呼べる日本人選手に巡り合えたことで、新打法をマスターしたのが、86年に中日に入団したゲーリーだ。

 メジャー時代は長距離打者ではなかったが、チーム事情から一発を期待されていると知ると、まじめな性格そのままに、大きく構える一発狙いの打法で、1年目に36本塁打、82打点を記録。山本リンダの「狙いうち」をアレンジした「ゲーリー、ゲーリー、ホームラン♪」の応援歌もすっかりおなじみになったが、ブンブン振り回したツケも大きかった。打率は2割5分1厘にとどまり、リーグワーストの105三振を記録。日本の投手に研究された2年目は、不安も大きかった。

 だが、同年オフ、ロッテから2年連続三冠王の落合博満が移籍してきたことが、転機となる。翌春のキャンプで落合の打撃練習を見たゲーリーは、「これが自分の求めていたスタイル」と確信し、通訳、コーチを通じて弟子入り。右と左の違いはあるが、落合流の“神主打法”を習得し、同年は3番打者として3割1分7厘、24本塁打をマーク。オールスターにも出場し、三振も51と半減した。

 翌88年も、落合が不調だった6月から2カ月にわたって4番を務めるなど、リーグ優勝に貢献。落合との運命的出会いが日本での野球人生を大きく変えた。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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落合は現役バリバリの大リーガーも“指導”