夏の甲子園優勝投手になった小川は、中大入学後、肩を痛め、打者に転向。1年春から中軸を任されたが、4年春までの7シーズンで打率2割2分4厘、4本塁打と伸び悩んだ。特に4年春は1割4分6厘、0本塁打と絶不調で、リーグ優勝にほとんど貢献できなかった。

 だが、宮井勝成監督は「あいつはいいものを持っとるんだ」と辛抱に辛抱を重ねて4番で使い続ける。そして、6月の全日本選手権で、“眠れる獅子”は16打数10安打13打点2本塁打と覚醒し、大学日本一の立役者になった。

「人の判断は早くし過ぎてはいけない」「多少の短所には目をつぶって長所を伸ばしてやる」という2軍監督時代からのモットーは、この体験によって培われたものだが、特に自身と同タイプの長距離砲の育成という点で大きな成果を挙げている。

 我慢の采配に徹した指揮官といえば、巨人・長嶋茂雄監督もその一人だ。

 監督1年目の75年、「試合でブルペンの力が出れば20勝級」と惚れ込んだ若手左腕の新浦壽夫を起用し続けたが、“ノミの心臓”が災いし、なかなか結果が出ない。「ピッチャー・新浦」がコールされると、スタンドは「長嶋、まだわからんのか!」「新浦を使うな!」とブーイングの嵐。選手時代から常に賞賛を浴び続けてきたミスターにとっても、最下位に低迷するチームへの非難と相まって、野球人生で初めて経験する大逆風だった。 それでも、「使うオレが悪いんだから、ヤジなんか気にするな」と信念を曲げることなく、打たれても打たれても新浦をマウンドに送り出した。そんな試練を乗り越えて、一本立ちをはたした新浦は、翌76年から4年連続二桁勝利を挙げ、左のエースに成長した。

 この経験が教訓となり、第二期政権下の96年も、出れば打たれるの繰り返しだった西山一宇を我慢強く使い続け、メークミラクルVに貢献させた。その一方で、長嶋監督は、松井秀喜や阿部慎之助ら、素質を見込んだ打者にも、早い段階から思いきってチャンスを与え、一人前になるまで忍耐強く見守っている。これも監督1年生時代の経験の賜物と言えるだろう。

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現在の巨人の和製大砲も…