球界の盟主として、長い伝統と高い格式を持つ巨人では、川相昌弘の名前が挙がる。岡山南高からドラフト4位で巨人入りし、1984年から2003年までの20シーズン、「バント職人」としてプレー。2003年8月には東京ドームで通算512犠打を達成し、ギネス世界記録にも認定された。そして同年、現役引退を表明し、9月21日には引退試合も行われた。しかし、その直後に原監督の辞任劇があり、自身のコーチ就任と引退後の立場が不透明な状況になると、10月6日に引退を撤回して巨人を退団。その後、中日に入団テストを経て移籍して3年間プレーした。

 巨人と中日。逆のパターンでは、井端弘和がいる。1998年に中日に入団すると、2001年からレギュラーとして活躍。しぶとい打撃と華麗な守備で、荒木雅博とともに「アライバコンビ」の愛称でファンに親しまれ、落合ドラゴンズの強さを支えた。2013年春のWBCでも存在感も見せたが、同年のシーズンで不振に喘ぐと、オフに球団から大幅減俸を提示されて交渉が決裂。結果、巨人に移籍して2年間プレー。引退後は巨人のコーチを3年間務めた。

 鳥谷以外の現役選手では、内海哲也だろう。自由獲得枠で巨人入り。2年目の2005年にプロ初勝利を挙げると、3年目に2ケタ勝利を達成。以降、不振に陥るシーズンなども経験しならがも成長し、最終的にはエースとして2011年、12年と2年連続で最多勝利に輝き、投手陣の支柱となった。そのまま“巨人愛”を貫くはずだったが、2018年オフに巨人がFAで炭谷銀仁朗を獲得した代わりの人的補償として西武に移籍。故障と不振で2019年は1軍登板なしに終わった。

 ここに挙げた面々は、移籍した理由はさまざまだが、そこに共通しているのは「ファンから愛されていた」ということ。違うチームのユニフォームを着ることで「チーム一筋で引退して欲しかった!」と言われることもあるが、その決断が彼ら自身の人生の糧になることも確かだろう。これからの時代、「チーム一筋」の選手の価値はさらに上がって行くことになるだろうが、同時に「外に出て学ぶ」ことの重要性も高まって行くはずだ。