ところが、来日初先発となった4月4日の楽天戦(Kスタ宮城)で、4回途中6失点KOといきなり撃沈。試合後に古傷の右肩の痛みを訴え、病院で「異常なし」と診断されたにもかかわらず、「アメリカの病院じゃないとわからない」という理由で一時帰国。その再検査でも「異常なし」と診断されると、日本に戻り、2軍で調整とは名ばかりの日々を過ごした挙句、「日本になじめない」という理由で、5月8日に退団帰国した。

 登板1試合で0勝1敗、防御率10.80。年俸は在籍期間で分割され、支払われたのは約7000万円だったが、それでも投球数64の1球あたりが100万円以上についた。

 さらに帰国後もツイッター上で「アメリカに戻って来れて最高だ!」と発言し、鷹ファンの怒りを倍加させている。

 メジャー時代は通算55試合出場にとどまり、実績面では、前記の大物2人と比較にならなかったものの、「触れ込みとはまったく違った」という意味で、彼らと肩を並べるほどインパクトがあったのが、97年に巨人入りしたルイスだ。

 台湾・兄弟時代は3年連続で打率3割5分以上をマーク。94年は最多安打、95年は打点王と最多安打、96年は3割7分5厘で首位打者と3年連続タイトルホルダーに輝いた。そこでついた異名が“台湾のイチロー”。シーズンオフに行われた巨人の入団テストでも、初日のフリー打撃で55本中16本の柵越えを放ち、長嶋茂雄監督をニンマリさせた。

 だが、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったスーパーヒーロー・イチローの名を冠されたのが不幸の始まり。台湾時代も併殺打や失策の多さなど粗さが目立ったルイスは、オープン戦から凡打、ザル守備を繰り返し、「どこがイチローやねん」とファンを呆れさせた。シーズン開幕後は、松井秀喜、西武からFA移籍の清原和博のあとの5番を任され、三塁を守ったが、打てず、守れず、走れずのお粗末三拍子。1カ月もの間、辛抱強くスタメンで使いつづけた長嶋監督もついにサジを投げた。

 6月に2軍落ちすると、再昇格を果たせないまま、シーズン途中で戦力外通告。出場39試合、打率2割3分7厘、0本塁打、14打点というお寒い成績で日本を去った。

次のページ
他にも触れ込みとは違う助っ人は多し…