東日本大震災以来、被災地でのフィールドワークを通じて、さまざまな形で人々の声を集めてきた東北学院大学の金菱清教授とゼミ生たち。調査のなかで、彼らは被災地の人々が大震災で亡くなった故人の夢を見ているという実態を知る。大震災で大切な人を亡くした遺族は、どのような夢を見て、何を思い過ごしているのか――。約1年にわたって集めた夢にまつわる証言を、記録集『私の夢まで、会いに来てくれた』(朝日新聞出版)として1冊にまとめた。同書で描かれている、突然の別れを経験した人たちが悲しみと向き合いながら前向きに生きる姿を紹介する。

*  *  *

■やっと触れた懐かしい母のほお(語り手/畠山あけみさん、聞き手/阿部あかり)

 誰かの呼ぶ声が聞こえる。自分がどこにいるのか、よくわからないが、明るくきらきらとした場所で、ぽかぽかとした陽気が心地よい。

「あけみ」

 その言葉にハッとし、畠山あけみさんはあたりを見回した。ふと前を見ると、母が立っていた。着ているのは、母のお気に入りの服だ。

「何してんの! どこにいたの?」

 あけみさんが叫ぶと、母は笑顔で「生きてたから、生きてたから」と答えた。しかし、どこにいたのかは教えてくれない。そばに立っている叔母もそんな母に「んだから、どごにいだの?」と声をかける。

 母はやはり答えず、その代わり、あけみさんの右手を持ち、自分のほおを触らせた。

「ほらほら、触れ、触れ」と言いながら。

 ほおの柔らかさ、右手をつかんでいる感触は、間違いなく母のものだ。とても温かく、懐かしい。

「もう、どこにいたの」

 そう言った瞬間、あけみさんは目が覚めた。

 景勝地の岩井崎に近い気仙沼市波路上牧に住んでいたあけみさんは、東日本大震災の津波で、一緒に暮らしていた父親の政雄さん(当時83歳)と母親のヤツ子さん(当時75歳)を失った。ヤツ子さんは芯が強く、何事にもきちんとした人だった。政雄さんは、元気のいいヤツ子さんがやることをうれしそうに見ているやさしい人だった。

 ヤツ子さんは震災から三カ月後、政雄さんは四年後にあけみさんの元へ帰ってきた。

 ヤツ子さんの遺体が見つかったと連絡があったのは、2011年6月のことだ。遺体安置所になっている体育館へ向かうと、中が見えないように目隠しとして吊り下げられたブルーシートの奥に数多くの方の遺体が安置されていた。

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あけみさんに警察官が見せてくれたのは…