こうした一見したところ非合理的に見える「フェイク・ニュース」を持ちだして、しばしば「フェイク」と「真実」の区別が強調される。

 ところが、やっかいなのは、「フェイク」と「真実」が、それほど簡単には見抜けないことだ。たとえば、卑近な例で申し訳ないが、今でも国会で議論されている「桜を見る会」についての政府答弁は、どうだろうか? これなど、簡単に決着がつきそうだが、肝心の資料が未提出だったり廃棄されたりしているので、「フェイク」かどうか、いまだに未決着なのである。

 そこで、あらためて今回の新型肺炎について考えてみると、その発生原因についてさえまだ特定されていない。武漢にはウィルス研究所が設置されているが、2017年にバイオ・セイフティーの最高レベルの施設が新設され、SARS研究の中心地となっていた。

 SARSはコロナウイルスの一種であり、今回のコロナウイルスとゲノム配列が似ている。こうした事情を背景に、人為的発生の可能性も取りざたされている。こうした情報は、ピザ・ゲート事件と同様に、「フェイク」として一蹴できるのだろうか。あるいは、それを確かめる手段がはたしてあるのかどうか。

 哲学の歴史を見れば、総じて「フェイクとの闘い」であった、と表現できるかもしれない。人々の思惑(ドクサ)に対して、いかにして真実の知(エピステーメー)を獲得するか、繰り返し問われ続けたのである。しかし、何千年にもわたって「フェイク」と「真実」の区別が問われたことは、逆の面から見ると、両者を区別するのが、きわめて困難であることの証左でもある。

 エイズが発生して間もないころ、それに感染して命を落としたミシェル・フーコーは、『言葉と物』のなかで、今まで真の知とされてきた「エピステーメー」を、一定の時期に形成され人々に共有された「ドクサ」として説明している。

 もちろん、だからといって、「フェイク」と「真実」が区別できない、というわけではない。両者の関係にも、さまざまなレベルがあり、事例ごとに慎重に議論しなくてはならないだろう。それでも、「フェイク」と「真実」が単純に区別できないことは、肝に銘じておかなくてはならない。