都を離れて地方に定住した武士は、その土地の名前を名字として名乗った。「織田」なら越前国織田荘(おたのしょう)、「上杉」なら丹波国上杉荘、「毛利」なら相模国毛利庄に住んでいたことがルーツだ。

 俗に「名字帯刀」という言葉があるように、江戸時代まで庶民は名字を公に使うことができなかった。その代わり、「家紋」の使用は葵や菊紋といった例外を除けば、規制はなかった。

 それを積極的に使ったのが商人だ。日本橋の茶・海苔問屋の「山本屋嘉兵衛」(現在の山本山)、鰹節問屋「伊勢谷伊兵衛」(現在のにんべん)などである。彼らは家紋と屋号を暖簾や看板に入れ、ステータス化した。また元禄年間(1688~1704)には、歌舞伎役者が大きな家紋入りの衣装を着用。おおいに舞台映えして、庶民に好評を博す。

 墓地の墓石にも家紋が刻まれるようになり「紋所を さがす無沙汰の 寺参り」という川柳も詠まれた。このように、庶民レベルでは名字を名乗れない代わりに家紋が広く使われるようになったのである。

■庶民の名字はどのように決めた?

 明治維新のあと、身分制度が撤廃される。明治8年(1875)、明治政府は戸籍管理のため「平民苗字必称義務令」を発布。

「平民も必ず苗字(名字)をつけ、祖先の苗字が不明であれば新たに苗字を設けるべし」と、誰もが名字を持つよう強制したのだ。

 それまで使っていなかったから、勝手が分からず戸惑う人々もいた。「田んぼの中にあるので田中ではどうか」と、お坊さんに決めてもらうなどして、どうにか決められていったのである。

 田中もそうだが、現在の日本人の名字の9割は地名、地形、方位等に由来している。
 
 地形や風景由来の代表例には、星野や高橋、山田、山口など。方位や方角由来は西、東、南、北のほか、西崎や西村、乾、巽、前田、中川などがある。

 現代の日本には10万種以上もの名字があるという。漢字の字体や読み方が違うものも数えれば20万近くになると思われるが、同じ名字の文化を持つ中国や韓国が数百から数千であるのに対し、圧倒的に多い。もはや日本独特の文化ともいえるだろう。

 ちなみに、その呼び方には「氏」「姓」「名字」(苗字)と、いろいろあるが、役所の書類記入欄に「氏名」とあるとおり「氏」が正しい。

 しかし、今では「名字」や「姓」でも通じるし、明確に区別する習慣はなくなっている。

 以上、「家紋」と「名字」のことをかいつまんで説明した。2月5日発売の『歴史道』Vol.8 の特集「家紋と名字の日本史」ではさらに詳細に触れている。

 家紋と名字の進化論、天皇に名字がない理由、菊紋・桐紋の誕生秘話から皇室紋の独占と解禁の裏事情。さらに、平氏由来を誇示する「揚羽蝶」、戦場にはためく「永楽銭」の旗印、覇王・信長はなぜ「7つの家紋」を使い分けたのか?――といった読み物も充実。日本人のアイデンティティ・家紋と名字がいかに生まれて広まり、ついには誰もが持つようになったのか。それらを知るために役立つ内容だ。

※参考文献/『決定版 面白いほどよくわかる!家紋と名字』(西東社)ほか
※紹介した紋は江戸時代になってから代表紋とされたもので、各氏の使用実態とは限らない