あるとき私が、捨てを放っておくことがどうしてもできず、部屋で飼ってあげたいと言ったことがありました。すると大家のおばあさんは「好きにしな」と許してくれました。そんなひとでした。

 私は“コハチのばばあの2階の照子”と呼ばれていました。給仕の仕事は、小学校の校長先生から直接いただいたお話です。私の家が大変な状態なのは町で知れ渡っていましたから、高校に通いながら、併設された小学校の給仕として働いてはどうかと、校長先生が声をかけてくださったのです。

 給仕というのは、学校の先生方にお茶を淹(い)れたり、授業の準備を手伝ったり、雑用全般を引き受ける仕事です。前任の女性はとても優秀な方だと評判でした。その方が、私に細かいことを丁寧に引き継ぎしてくれました。

「先生方が30人くらいいらっしゃるからね。それぞれの方の好みに合ったお茶をお出しできるよう、がんばりましょう」

 私が最初に覚えたのは、30人の先生方のお茶の濃さと熱さの加減です。それぞれの方に間違わずにお茶を出せたとき、皆が喜んでくれました。ひとに喜んでもらえると、次の日からはますますおいしいお茶を、と奮起するものです。“コハチのばばあの2階の照子”が淹れるお茶はおいしいらしい。町でそう言われるようになったときは、なんだかくすぐったい気持ちでいっぱいになりました。

 そのうち私は小学校の文集づくりも頼まれるようになりました。昔は文集も手づくりです。「謄写(とうしゃ)版印刷(ガリ版)」というものを、皆さんはご存知でしょうか。ヤスリ版の上にロウ紙を置き、そのロウ紙に文字を書いていくとそこに溝ができるので、その上にインクを塗っていけばプリントができるのです。

 最初のうちは文字だけ描いていたのですが、そのうち針を深く刺したり浅く刺したりと力加減を変えていけば、点描のグラデーションができるということを自分で編み出しました。そこで小学校を卒業する子どもたちが描いた絵を私が点描し、文集の表紙をつくってあげたら、皆が感激してくれて。

 私はあるときから“ガリ版名人の照子”と呼ばれるようになりました。

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毎日を「いやだ」と思ったことはない