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もし明智光秀が坂本城に戻れていたら… 滋賀県坂本をめぐりながら思う「秀吉が天下を取れなかった世界」

連載「あなたの知らない神社仏閣の世界」

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坂本城址公園に立つ明智光秀像

坂本城址公園に立つ明智光秀像

坂本城址公園から250メートルほど北に位置する「明智塚」

坂本城址公園から250メートルほど北に位置する「明智塚」

穴太衆が積んだ石垣が坂本の町には残る

穴太衆が積んだ石垣が坂本の町には残る

西教寺にある明智光秀と正室・煕子ほか一族の墓

西教寺にある明智光秀と正室・煕子ほか一族の墓

 2020年の大河ドラマは織田信長を裏切ったことで知られる明智光秀を主人公にしたものである。光秀が天下人でいられたのがわずか十数日であったことから「三日天下」なる熟語も生まれ、未だに彼が起こした本能寺の変は歴史のミステリーとして語られている。

【西教寺にある明智光秀と正室・煕子ほか一族の墓】

 そんな光秀であるが、知行地であった滋賀県坂本では市井の人々に慕われていた様子がうかがえる。光秀と正室・煕子(ひろこ)ほか一族のお墓がある西教寺のお堂の中には、光秀の功績をたたえる一室があった。

●比叡山焼き討ちの褒美として

 元亀2(1571)年9月に織田信長と延暦寺の対立から比叡山は全山を焼き払われるのだが、近江国では比叡山以外の寺社も多くの伽藍やお宮が灰燼(かいじん)に帰した。この比叡山焼き討ちの陣頭指揮を執ったと言われるのが明智光秀である。焼き討ちの功労から、光秀は信長から比叡山のお膝元である坂本という領地をもらい受けた。

 比叡山焼き討ちは延暦寺側では「元亀の兵乱」と呼んでいて、僧侶ばかりか子女子までもの首をことごとくはねたと言われている。

●坂本城の存在感

 光秀は拝領した坂本に坂本城を築く。これは信長による延暦寺への監視の目的もあったようだ。坂本城は大小の天守と石垣、瓦葺きの天主を持つ絢爛な城で、信長の安土城より先に作られたものだ。

 近江国で堅固な城壁が作られた理由のひとつに、延暦寺などの建設に寄与した穴太衆(あのうしゅう)という石工たちの存在がある。今も延暦寺の参道などにその姿を確認できるが、自然石を積みあげて巧みに高い石垣に仕上げる技を持つ彼らは、この地で長く仕事を重ねてきた。信長も光秀も築城の際には穴太衆を重用し、他国からの攻撃に対処しやすい山城が主流だった戦国時代の初期にはない城を作り上げていったのである。

●やがては廃城、消滅へ

 そんな坂本城も光秀滅亡とともに焼け落ち、豊臣秀吉により一度は再建されたものの、残念ながら痕跡は一帯にほぼ残っていない。秀吉の時代、しばらくは城として機能していたが廃城となり、新たに築城した大津城の資材として再利用されたことが大きな理由である。

 坂本城跡であることは、坂本城中掘付近跡の石碑、公園となった本丸跡付近に立つ明智光秀像、明智一族の墓所とも伝わる「明智塚」で知れるくらいである。

 かろうじて、明智光秀像から1.5キロほど北にある聖衆来迎(しょうじゅらいこう)寺に移築された坂本城の城門が残っているが、これも往時の立派さを感じさせるものではない。


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