「それまでの努力というのはバット100回振ったとか、ランニングやったとかいうものでした。だけどわしはそんなしんどいことせんで、頭のほうでやった」

 高井はスペンサーの影響で、相手投手の癖を手帳に書き込むようになった。出番がないときは、バックネット裏から変装して、相手投手の動きを観察した。手帳は以後何年にもわたって書き込まれたので何冊にもなった。

<〇南海ホークス・江夏豊 
 ワインドアップのとき……グラブに入れる手が深いときはカーブ。グラブから手首が出たらストレート。
 セットのとき……グラブがいつもより下に降りて、グラブが大きく早く回ったときはストレート。

ロッテオリオンズ・村田兆治 
 ワインドアップ 手首の筋が出る。ストレート。筋が動く。スライダー。掌が少し開く。ストレート。掌が少し狭い。変化球。セットでは背中にボールを持った手がきているか、ワシづかみでボールをグローブに入れる。フォーク> 

 この頃、高井の活躍をSPN特約記者のネイト・O・マイヤーズが見ていた。彼は「これだけの打者が守る場所がないために代打に甘んじるのはもったいない」という趣旨の記事をスポーツ新聞に書いた。彼は1年前にアメリカン・リーグが指名打者制を採用したように、パ・リーグの人気を高めるためには、指名打者制を導入し、高井のような選手を大活躍させることだと提案した。

 この一文がパ・リーグの経営者の目に留まり、翌年(75年)から指名打者制がパ・リーグに導入され、今日のパ・リーグの大きな魅力となっている。

 高井は75年8月27日のロッテ戦で通算代打本塁打の世界記録(19本)を達成した。ただ新聞の見出しは小さく、球場では新記録樹立のアナウンスもなかった。

 77年には主に指名打者として出場し、リーグ11位の打率2割7分7厘を記録し、指名打者部門でベストナインに選ばれた。翌78年は打率3割2厘、本塁打22本、打点77、その翌年も打率3割2分4厘、本塁打21本、打点66をマークし、彼は指名打者となって成績も大きく向上した。

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