同じく西武で96年1位の玉野宏昌は、巨人FA移籍した清原和博の背番号「3」を受け継ぎ「清原の後継者」と呼ばれた。玉野の場合は、神戸弘陵時代に特筆した成績を残したわけではなく、甲子園出場もなかった。それでも高卒ドラ1で同じ内野手の背番号「3」には、必要以上の大きなプレッシャーがのしかかった。目立った成績もなく3年で背番号は「33」に変更され、プロ4年目には69試合に出場して本塁打も放ったが、実働わずか5年のプロ生活、通算4本塁打でユニフォームを脱いだ。

 ロッテで95年1位の澤井良輔は、銚子商業で春夏連続の甲子園出場を果たし、センバツではチームを準優勝に導いた。パワーあふれる打撃は、のちのメジャーリーガーで当時PL学園の福留孝介と「西の福留、東の澤井」と並び称される存在だった。その福留の外れ1位として地元チームに入団したが、プロの変化球に対応できず、3年目まで一軍出場は2試合のみ。5年目にようやく初本塁打を記録したが、通算6本塁打でプロ10年目に戦力外通告を受けた。その後も社会人野球でプレーしたが、NPBに復帰することはなかった。

「不発の大砲」には高卒選手が多いが、即戦力の期待に応えられなかった大卒選手もいる。

 1989年にドラフト1位で巨人に加入した大森剛は、慶応大で東京六大学リーグ史上6人目となる三冠王に輝くなどリーグ通算17本塁打を放ち、ソウルオリンピックにも出場した。ドラフトではともに巨人を熱望していた上宮高・元木大介とどちらが1位指名されるかが注目されたが、ドラフト前に「高校生より下の指名は受けない」と宣言した大森を巨人は選択した。プロ入り後は、イースタンリーグで二度、本塁打と打点の二冠王を獲得したが、一軍では結果を残せず、プロ実働8年間でわずか5本塁打に終わった。

 02年に西武の自由獲得枠で入団した後藤武敏は、横浜高で松坂大輔と甲子園春夏連覇を達成した時の主力打者だった。法政大でもリーグ三冠王に輝き、西武でも1年目から開幕4番に抜擢され、1年目から11本塁打を記録。しかし、その後は守備の不安もあり定位置は確保できず、11年オフにトレードでDeNAに移籍。ベイスターズでは「ゴメス」の愛称から登録名にGの文字を入れ、代打の切り札として存在感を発揮した。

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現役にもいる未完の大器