大阪桐蔭時代はプロでも大砲になると期待された萩原誠だったが…… (C)朝日新聞社
大阪桐蔭時代はプロでも大砲になると期待された萩原誠だったが…… (C)朝日新聞社

 今季のセ・リーグで新人王に輝いたのがヤクルト村上宗隆。高卒2年目で36本塁打、96打点をマークし、歴代の様々な記録を塗り替えた。高校通算52本塁打の大砲候補が見事に開花した形となったが、過去には村上と同様に大きな期待をかけられて入団しながら、プロでは大成しなかった選手もいた。今回はそんな儚い夢を見せてくれた「不発の大砲」を紹介する。

【過去10年高校別「プロ野球選手輩出数」ランキング】

 阪神が1991年にドラフト1位で獲得した萩原誠は大阪桐蔭で春夏の甲子園に出場し、夏の大会では打率.688、3本塁打の猛打で同校の初出場初優勝に貢献した。高校通算58本塁打の大砲候補に、阪神は「ミスター・タイガース」と呼ばれた掛布雅之氏の背番号「31」を託した。トラ党の大きな期待を背負った萩原は、ウエスタンリーグで打点王や首位打者になったが、一軍では2年目まで本塁打なしと不発。3年目のプロ初本塁打から二度の1試合2本塁打を記録したが、結局一軍での通算本塁打はこの4本のみ。話題になったのは、プロ2年目に萩原誠斗、5年目からは名字の変更で誠と、登録名が二度変わったぐらいだった。

 高校通算本塁打数で注目されたのが、93年阪神2位の平尾博嗣と99年西武3位の大島裕行。大宮東高時代の平尾は、清原和博がPL学園で記録した通算64本塁打を超える68本塁打を放って注目を浴びた。春のセンバツでは初戦で先頭打者本塁打を放つなど、三拍子揃った内野手として期待された。ただ、プロ2年目から一軍出場したが、伸び悩みが続き、レギュラーの座をつかめないまま、01年に西武にトレードで移籍。西武でも準レギュラーの状態が続いたが、内野の全ポジションを守るユーティリティーぶりと「チャラ尾」の愛称でムードメーカーにもなり、18年間と息の長い現役生活を送った。

 大島は当時の歴代最多記録となる高校通算86本塁打をマーク。甲子園でも沖縄水産の新垣渚から本塁打を放つ活躍で、本人が熱望した地元球団への入団で大きな期待を受けたが、プロでは定位置奪取もままならない状態が続いた。4年目に96試合出場で7本塁打とプチブレイクし、翌年も8本塁打を放ったが、レギュラーにはなれず、左の代打要員となった。通算成績は23本塁打、106打点で10年間のプロ生活を終えた。

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大卒の「不発の大砲」と言えば…