■ミスターキクチはこれからも

 あれから、あっという間に1年半。完成した映画を携え、お隣の韓国の釜山国際映画祭でのワールドプレミアを経て、はるばるドイツのライプツィヒ国際ドキュメンタリー・アニメーション映画祭にやってきた。ライプツィヒは、ベルリンから電車で約1時間半。第二次世界大戦以前まで国内の半数の出版を担っていた有数の本の街で、市内に装幀家のための大学まであるのだとか。

 初日の朝は一番寒く、0度を下回っていた。霧に包まれた中世の建築物。楓の並木が葉を落とし、石畳をおもちゃのようなトラムが滑る。

 ファーストスクリーニングは22時からだった。ショッピングモールの中にある、いわゆるシネコンの映画館なのに、建物が旧式だからだろうか、不思議と地元感が漂う。小さなライブハウスを寄せ集めたみたいに、中二階や中三階が複雑に入り組んでいる。

 スタッフの挨拶があって、消灯。赤い目玉がデザインされた映画祭のムービングロゴが流れる。ぎりぎりに駆け込んできたルーズな客が何人かいる。さりげなく客入りを確認しながら、ほっとマフラーをほどく。ほとんどが地元の観客らしい。

 後方の端の座席に体を埋め、改めて自分の映画を観た。完成後すでに10回は観ているはずだけど、それでも海外で現地の観客と観るのは新鮮なものだ。どこで笑いが起き、どこで頷き、どんな姿勢で観ているのか。彼らの反応を横目に、いちいち腰を浮かせてしまう。

 明かりがつき、席を立つと優しい拍手を向けられた。20分程度の観客との質疑応答が行われる。150席ほどの小さな小屋なので観客の一人ひとりの表情がよく見える。質問は控えめでも、じっと興味を持って見つめられているのがわかる。謙遜ではなく私に対してというよりも、映画の中の菊地さんに対する視線だと感じる。最後に、若い女性から「ミスターキクチはこれからも仕事を続けますか?」と質問があった。

「もちろん彼は言葉がある限り、装幀し続けると思います」

 私は安心してもらおうとそう答えてから、思わずハッとした。今日は10月31日。この日を境に菊地さんは事務所を畳み、仕事場を自宅に移すことになっている。

次のページ
翌日、観客のひとりに勧められ…