先日も、近所のリサイクルショップで旅行用のリュック(なんと登山用品ではよく知られたブランド品)を500円で手に入れた。ちょっと汚れがあるから、という理由のわけあり品。だが、家で軽く洗ったら、きれいにとれた。こんなときは「やったぁ!」とひとりでご満悦になる。

限られた枠の中でも、こうして目いっぱい楽しんで暮らしていけば、窮乏感には直結しないものだ。

■ささやかな贅沢を見つける

「自分のポケットの小銭は、他人のポケットの大金にまさる」。『ドン・キホーテ』の作者、セルバンテスの言葉だ。この言葉どおり、自分のポケットの小銭でもそれなりに楽しんで暮らす。これが、シニアの贅沢の極意だと、私は考えている。

 先日、ふだんよく歩く路地で、これでもかというように、みごとに枝を広げ、誇らしげに咲いているマーガレットを見つけた。近づいてみると、どうやら根っこは一つ。どこかから飛んできた1粒の種がコンクリートで舗装された道の端にあるわずかな土に舞い降りて、そこで芽を出し、ぐんぐん伸びて大きな株になったものらしい。

 こうした植物の力を間近に見た。それだけで、けっこう明るい力をもらえる。 自宅前の公園はいま一面の緑に覆われ、樹々や葉の茂りから日の光がもれる様子も素晴らしい。その緑の下をそぞろ歩く、それが日課だが、毎朝、ほかには何もいらないといいたくなるほど満たされている。

 年をとった証拠だといわれてしまえばそれまでだが、私が今、いちばん贅沢だと思っている食べ物は、ある豆腐屋が毎日、自店でつくっている豆腐だ。店の前を通りかかっただけで、ちょっと青くさいような大豆特有の香りが漂ってくるくらいで、その味は感動的という表現以外は見つからない。

 こうした豆腐屋はもはや“絶滅危惧種”。私がこの店に行くのも月に2回、電車で10分ほど乗って通っている気功の帰りだけ。立ち寄るのは夕方近い時間だから、「まだ、ありますよ」といってもらえる確率は2分の1くらい。というわけで、運がよくて月に1回出会えるかどうか。それだけに、ここの豆腐を手に入れることができた日は、まさに僥倖(ぎょうこう)。1丁170円で手に入る、はかり知れない幸せだ。

 自分のポケットの小銭をこんな風に大きな価値に変えて生きる。そんな芸当ができるのも、年を重ねたゆえの知恵にほかならない、と勝手に考え、深く満足している。