周防:うん、そういうものだったんだと。で、僕にとってさらに衝撃だったのは、小津安二郎も溝口健二も「スクリーンの横に人が立って自分の映画を勝手に解説される」という状況のなかで映画を撮りつづけていた、ということ。となると、小津さんや溝口さんはサイレント時代、いったいどんなことを考えながら撮っていたんだろう……と考えたら、ますますおもしろくなってしまって。

 この小説でも触れられていますが、大正中期に「純映画劇運動」というのが起きているんです。「活動弁士がいるから、日本の映画技術は発展しないんだ」という批判があった。どんな画でも、語りでおもしろくできてしまうから、お客さんは喜んでしまう。欧米のように、どういうアングルから撮影して、どうやって編集して、どういう動きで演じればこの登場人物の感情が伝わるか……と深く追求することがない。それで技術が進歩しないんだ、という批判が起こった。

片島:日本映画は欧米を模範にしなければと、帰山教正ら若い映画人がこの運動を提唱しています。当時はまだ歌舞伎の影響も強く、映画でも女の役はすべて男が演じていたのが、この運動を契機に、やがて日本映画でも女優が起用されるようになっていくんですが。

周防:活動弁士は、インテリ層からは長らく、マイナスの存在と見られていたかもしれないけれど、実際、トーキーがどっと押し寄せてくるまで、大衆はカツベンを支持していた。そう考えると、活動弁士がいたことは、プラスとかマイナスとかではなく、日本人は語りとともにしか、活動写真を受け入れられなかったんじゃないか。そんなふうに思ったんです。

 日本には語り芸がいっぱいありますからね。古くは平家物語の琵法師に始まって、浄瑠璃、落語、講談、浪曲もある。紙芝居だって絵を語りで見せている。そういうなかで新しい映像文化に出会った日本人が、活動写真を受け入れるときに、語り、すなわちカツベンつきの上映スタイルになっていったのは、そうせざるを得なかったというか、それが必然だったんだろう、自然なことだったんだろうと。

 だとすると、その後の日本映画の発展を考えても、小津、溝口、黒澤といった巨匠たちにも、活動写真の影響が何らかの爪痕を残しているんじゃないか。日本映画に活動弁士がいたからこそできあがったスタイル、というのもあるはずですよね。

 実際、そういう研究もされ始めています。最近では、ポール・アンドラという日本文学の研究者が著した『黒澤明の羅生門――フィルムに籠めた告白と鎮魂』(新潮社、2019年)という本で、黒澤明と活動弁士であった兄、そしてサイレント映画の影響について触れているんです。たとえば、お白洲で巫女が出てきて口寄せする場面。あそこで、巫女本人の声ではなく、侍役の森雅之の声になるじゃないですか。ああいうところに、活動弁士の影響を指摘していたり。

次のページ
成田凌さんをキャスティングした理由