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森鴎外にボコられ消された? 地質学者ナウマンの功績の真実

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ドイツ留学のころの森鴎外(提供:日本近代文学館)

ドイツ留学のころの森鴎外(提供:日本近代文学館)

原田の対曲の説明図(『地学雑誌』第1巻より)/2つの異なる弧の形をした山脈(甲と乙)が、ある角度をなして接することを対曲という(左の図)。接した部分は鋭い入れ込みができることが多い。原田は、ナウマンのいうフォッサマグナとは、本州中央部の、三国山脈と足尾山系(東側、甲山脈)と赤石山系と木曽山脈(西側、乙山脈)が、天守山地や御坂山地や関東山系のところで接している対曲と考えた(右図)

原田の対曲の説明図(『地学雑誌』第1巻より)/2つの異なる弧の形をした山脈(甲と乙)が、ある角度をなして接することを対曲という(左の図)。接した部分は鋭い入れ込みができることが多い。原田は、ナウマンのいうフォッサマグナとは、本州中央部の、三国山脈と足尾山系(東側、甲山脈)と赤石山系と木曽山脈(西側、乙山脈)が、天守山地や御坂山地や関東山系のところで接している対曲と考えた(右図)

日本初の地質図。現代の地質図と比べても遜色ない精緻な図。写真は『日本群島、その地理学的―地質学的概要』の付図で、1885年、ベルリンの万国地質学会議でナウマンが発表し、喝采を浴びた「全国地質略図」と同一のものと推定される

日本初の地質図。現代の地質図と比べても遜色ない精緻な図。写真は『日本群島、その地理学的―地質学的概要』の付図で、1885年、ベルリンの万国地質学会議でナウマンが発表し、喝采を浴びた「全国地質略図」と同一のものと推定される

 地質学者としての才能を見いだされ、若くして日本へ派遣されたエドムント・ナウマン。その期待を裏切らず、初代東大教授として同い年の学生を列島巡検に動員し、正確な日本地質図を作り上げた。しかし日本でナウマンが顕彰されることはほとんどない。文豪森鴎外にドイツで論争を挑まれ、凹まされたためだ。さらに鴎外だけではなかった。ナウマンが発見したフォッサマグナ(日本列島を南北で分ける大きな溝)をめぐり、最大の難敵が控えていたのだ……。

【ナウマンが描いた日本初の地質図はこちら】

 二人の日本人に批判され、消されたナウマンの功績。『地質学者ナウマン伝』(矢島道子著、朝日新聞出版)で明らかにされた真実とは?

*  *  *
■鴎外『独逸日記』の敵役、ナウマン

 お雇い外国人ナウマンは1885年にドイツ帰国後、万国地質学会議で日本の地質図を発表した。地質図は好評であり、ドイツ各地だけでなく、ウィーンなどで講演を頼まれた。講演は地質学よりも日本の文物や風俗を紹介することが多かった。そんな中、ドイツ留学中の森林太郎(鴎外)がドレスデンでの講演を聞いていて、厳しく批判し論争となったといわれている。

 森鴎外の初期の作品を好きな人は『独逸日記』を読むことも多いと思う。『独逸日記』に従うと、鴎外がナウマンの講演を批判したのは1886年3月6日のこととする。「夜地学協会の招に応じ、その年祭に赴く。この夜の式場演説は日本と云ふ題号にて、その演者はナウマンなり。この人久しく日本に在りて、旭日章を佩(お)びて郷に帰りしが、何故にか頗(すこぶ)る不平の色あり」「その間不穏の言少なからず。」「余はこれを聞きて平なることあたわず」「余は懊悩を極めたり」「夫れ式場演説は駁すべからず。酒間の戯語は弁ずべし」「以て今夕の恨みを散ずるに足らん」

 この半年後、鴎外はドイツの新聞紙上でナウマンとの論争を展開する。鴎外は自分の書いたことだけ日本に送った。東京大学医学部生の呉秀三が大学で大声で朗読した。その反響は「同学皆髪立ち、眦(まなじり)裂け、彼狂言を罵(ののし)り、此蓋世の文を賞し、全級を震動せり」とあり、その訳文は東京日日新聞に載った。そして、ナウマンと鴎外をめぐる情報はずっとそのままであった。


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