もし興味があるのならば、一度サーキット走行を体験することをおすすめする。TVやゲームではわからない、感覚でしか味わえない難しさがそこにある。筆者も1度だけ走ったことがあるが、経験したことがないスピード感や横G縦Gに驚いた。全くF1よりも遅い市販車にもかかわらず。F1ドライバーがどれだけ「選ばれし者」なのかが体験できる。

 1987年から鈴鹿サーキットでF1グランプリが開催されて以降、数多くの出来事や名言が生まれてきた。

 1988年、マクラーレン・ホンダを駆るアイルトン・セナは鈴鹿で自身初のワールドチャンピオンを決め「スプーンカーブを走っているとき、神を見た」と語った。セナが2度目のワールドチャンピオンに輝いた1990年のFIA表彰式では本田宗一郎が「来年もナンバーワンのエンジン、作るよ」と肩を組み話しかけ、翌1991年もワールドチャンピオン連覇を果たした。本田宗一郎は1991年8月5日に亡くなったが、その直後のハンガリーGPではセナは喪章をつけて挑み、ポール・トゥ・ウィンを捧げた。

 日本人初のフルタイムF1ドライバーの中嶋悟は、1987年のレースの1コーナーで「大外刈り」を2回決めて、6位入賞を果たした。当時ポイントは6位まで与えられ、1ポイントだったが、鈴鹿を熟知した走りで“オールドルーキー”中嶋の名を世界に轟かせた。中嶋は1991年夏に引退を発表し、鈴鹿ラストランはマシントラブルによるクラッシュでレースを終えたが、サーキットを埋め尽くした「ありがとう中嶋」の横断幕は日本人パイオニアレーサーへの大きな大きな尊敬の証拠だった。

 1990年。日本人初の3位表彰台に鈴木亜久里が登り「残り2周で、走りながら涙が出てきた。格好悪いので、ゴールまでに止めなくてはと、グッとツバを飲み込んだよ」とコメント。1989年には全戦予備予選落ちという地獄を見ながらも、それを全く感じさせない表彰台での屈託のない笑顔は今でもファンの心の中に残っていることだろう。

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ドライバーも憧れる聖地