■横浜:村田修一

 パチョレック、ブラッグス、ローズなど外国人助っ人が平成の序盤から4番を任されてきた横浜だが、2006年(平成18年)から村田修一が“和製大砲”としてその座に長く君臨した。2011年(平成23年)のオフにDeNAに買収され、今は人気チームのイメージがあるが、村田が在籍した時代はチームの成績や、人気ともに“暗黒時代”と呼ばれておかしくないものだった。そんな中でも存在感を示したのが村田で、36本塁打を放った2007年(平成19年)と、46本塁打の2008年(平成20年)に2年連続でホームラン王を獲得。打点も2006年(平成18年)から3年連続で100打点超えを記録した。吉村裕基との“大砲コンビ”は相手チームにとって脅威的だった。

 近年では村田と同様に、日本を代表とするスラッガーに成長した筒香嘉智が4番を任されている横浜だが、“松坂世代”のスラッガーで、ファンには「男・村田」の愛称で愛された大砲をここでは選出したい。

ヤクルト:バレンティン

 広沢克己、畠山和洋を除いては、ほぼ外国人助っ人が代わる代わる4番を任されてきたヤクルト。助っ人の補強が“大の得意”である球団らしく、オマリー、ペタジーニ、ラミレスと、日本プロ野球史に残る優良な外国人選手が並ぶが、バレンティンの存在はその中でも頭一つ抜けている。メジャーリーグでも未来の大砲として将来を嘱望されたバレンティンは、来日初年度から2年連続でホームランキングの称号を手にすると、入団3年目の2013年(平成25年)には王貞治らが持つシーズン最多の本塁打記録を塗り替える60本のホームランを量産した。NPB史上5人目となる3年連続のタイトルを獲得し、長打率の.779も史上最高の記録となった。

 過去に4番を務めた広沢、ペタジーニ、ラミレスはヤクルトで活躍したのち、リーグのライバルでもある巨人に移籍。バレンティンも移籍の噂などは度々出たが、平成の終盤からチーム一筋で4番に長く座ったのも評価の対象とした。