だが、大学4年時に右肩のクリーニング手術、プロ2年目の2004年にはトミー・ジョン手術(じん帯再建手術)を受け、翌05年のオフに右肘を再手術していた館山の野球人生は、その後も故障との闘いとなる。

 2ケタ勝利を続けていた2011年オフに右手血行障害の手術、初の開幕投手に抜てきされた13年のシーズン序盤には2度目のトミー・ジョン手術、そして復活を目指した翌14年に3度目のトミー・ジョン手術……。故障のリスクを賭してでも、打者を抑える確率を高める術を追求したが故のことだったが、引退会見では「心が折れることもありました」と心情を吐露した。

 それでも館山はよみがえった。2015年6月28日の巨人戦(神宮)で一軍マウンドに復帰すると、7月11日のDeNA戦(神宮)で1019日ぶりの勝利。試合後のお立ち台では「何度手術しても、皆さんがいればこうやって戻ってくることができるんです」とスタンドのファンに語りかけた。この年は6勝を挙げてヤクルトのリーグ優勝に貢献し、カムバック賞を受賞。“負けない男"は、たび重なる故障にも負けなかった。

 間違いなく「記録よりも記憶に残る」館山だが、通算勝率.556は石井一久(.609)、鈴木康二朗(.582)、金田正一(.569)に次いで球団史上4位。通算防御率3.32は同7位、通算85勝も同10位タイ(勝率、防御率は通算1000投球回以上の投手が対象)にランクされている。記憶だけでなく、記録でも前身の国鉄、サンケイ時代を含めた球団の歴史にしっかりと残っているのである。

 一方の畠山は専大北上高から、館山よりも早い2001年に入団(ドラフト5位)。引退会見では、自ら「練習嫌いとして有名な部分はあったので……」とおどけたが、実際に二軍時代はなかなか練習に身が入らず“戸田の問題児"などと呼ばれたこともあったという。当時は二軍の指揮官だった小川淳司監督が述懐する。

「一番最初に(二軍戦で)スタメンで『8番サード畠山』ってやったら『クリーンアップ以外を打つのは初めてです』って言われて……(苦笑)。まあ、それは自信の表れだったと思いますし、確かにバッティングの技術は非常に高かったと思います。ただ、あの体型なんで、なんとかしようと思って(練習で)走らせたっていうのも事実だし、厳しくやったのも事実です」

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小川監督の思い出