封筒には、数百万円かかる保険適用外のがん治療のパンフレットが入っていました。

「副作用が起きる抗がん剤ではがんは治りません。息子には同封したクリニックの治療法を受けさせます。その先生は先日、私たちが相談に行ったとき『がんは必ず治ります」と強くおっしゃってくれました。私たちは治る治療を選びます」

 手紙をカルテにはさみ、私はそっと目を閉じました。多くの後悔で胸がつぶれそうな思いでした。その後、香山さんがどうなったかわかりません。

「医療に、奇跡は起きない」

 小説『新章 神様のカルテ』(小学館、夏川草介著)の言葉です。

 残酷ではあるけれども、医療に奇跡は起きません。この世に生まれた人間は必ず最後は亡くなります。

 私たち医者も、奇跡を祈ります。それでも奇跡が起きないのを知っているから、可能性が低いけれども、その低い可能性にかけて治療することがあります。

 私はたくさんのことを後悔しました。

 安易に検査結果を伝えていなければ、香山さんはこの病院で治療を続けたかもしれない。

 香山さんと一緒に治療を悩む時間を共有していたら、効果の確認されていないがん治療に何百万円と支払うことはなかったかもしれない。

 香山さんの話を聞く前に抗がん剤のスケジュールを決めていなければ、香山さんはそのパンフレットをもって私のところに相談に来られたかもしれない。もしかしたら、そのときに「根拠のない治療は危険ですよ」とアドバイスできたかもしれない。

 私の頭の中に「たら」と「れば」ばかりが浮かびました。

 がんと宣告され、多くの患者さんは動揺します。厳しい状況においては、医者は治療を急ぎます。医者になると何人もの患者さんを診断し、繰り返し治療していきます。そしていつの間にか、患者さんが戸惑い悩む時間を忘れてしまいます。もしかしたら、ずっと忘れない医者もいるのかもしれないけれども、あの時の私は治療を急ぐあまり、患者さんに考える時間を与えずに抗がん剤のスケジュールを立ててしまいました。

 人間は迷う生き物です。

 だから、「治療をがんばります」と診察室で聞いた言葉や「もう治療はしたくありません」という言葉を、契約書のように後生大事に守り通すのではなくて、もしかしたら自分の決断を後悔してるかな、と思いを馳せることが大事なんじゃないかと思っています。

 患者さんに寄り添うって難しいことだけれども、それぞれの患者さんと同じペースで一緒に悩み、治療を進めていける医者でありたいと思っています。若かりし頃の自分の後悔を無駄にしないためにも。

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大塚篤司

大塚篤司

大塚篤司(おおつか・あつし)/1976年生まれ。千葉県出身。医師・医学博士。2003年信州大学医学部卒業。2012年チューリッヒ大学病院客員研究員、2017年京都大学医学部特定准教授を経て2021年より近畿大学医学部皮膚科学教室主任教授。皮膚科専門医。アレルギー専門医。がん治療認定医。がん・アレルギーのわかりやすい解説をモットーとし、コラムニストとして医師・患者間の橋渡し活動を行っている。Twitterは@otsukaman

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