大塚:僕はそれとは逆で、最近は、患者さん一人が、子どもを含め家族のことを引き受けなくてもいいんじゃないかと思うようになりました。僕たち医療従事者が患者さん本人の選択について、家族が後悔しないように説明してあげたり、納得するための道筋をつくってあげたりすることはできるんじゃないかと思っています。

夏川:僕は患者が亡くなるときは、その人が関わっている親戚や近所の人と必ず面会するようにしています。どんなに「一人で生きてきた」という人でも、その人に最期は一人だと思わせないように。遠い親戚がいたら必ず電話して、どういう人なのかを聞くし、近所の人にも来てくれとお願いする。

 いま個人主義が広がって、そのひと個人をとても大事にするのが主流です。でもそれに乗るのはすこし違和感がある。「最期は俺が決める」という結果、切り捨てられているものも多いと思う。当然のことだけど、患者さんの思いや希望をくみ取ることは一番大切です。でも患者さんの意見だけに耳を傾けていると、結果的にうまくいかないことがある。だから僕は、できるだけその人のまわりの人とも関わるようにしています。往診の時も、ときには隣の家を訪ねたりもする。

大塚:それをやっている医者は少ないね。僕は、「自分勝手に死ぬ」と言っている人ではなくて、いろんな人に気配りをして、つながりを大事にしてきた人の最期というのは、もうすこし穏やかにしてあげられないかなというのが思うところです。ただ夏川さんがおっしゃっているのは、残された人の気持ちがすごく大事だということですよね。

夏川:そういう点で、僕も大塚さんもめざしているところは同じだと思うんですよ。

大塚:『新章 神様のカルテ』では、大学病院のことが描かれているじゃないですか。僕はいま大学病院に勤めていて、一時、2年間、市中病院にも行っていて、大学病院との違いはわかっているつもりだった。でも、これを読んで再確認したところがあった。その一つがパン屋さんの例え話。大学病院の医療を、限られた貴重なパンにたとえ、与えられる患者の数は限られているので、その限られたパンを一番助かる人に与えるべきだという主張が出てきます。それに、主人公の一止先生は、「大学には、山のようにパンがあるんです。そのたくさんのパンを患者に配らずに、後生大事に抱えたまま倉庫に隠し持っているのが大学という場所です」と。あれはすごい言葉だなと思って。

 たとえば、患者さんは病気を治そう、生きようと必死で100%向き合ってくれていることに対して、医者がちゃんと受け答えできているのかということに結びつくなと思ったんです。こっちでできることって本当はもっとあるんじゃないの? とくに大学病院のような大きなところでは、一人に対してこんなことをやってしまったら全員の患者さんにやらなくてはならない、でもそんなことをするリソースはないというのはごもっともなんだけど。だからといって、目の前の患者さんに全力を尽くさないというのはまた別の問題なわけで。言い訳として、ひとりひとりに望むようにやっていたら、追いつかない。じゃあ、誰に対して医療をやっているの?と。

夏川:もうちょっとなにかできるんじゃないかと思いつつ、どこか踏みとどまってしまう。微妙な空気があるんですよね。

大塚:それは大学特有のものなんでしょうかね? 僕は、市中病院にいたのが2年だったし医者になってすぐのことだったから……比べるのもおかしいけど、子どもの遊びみたいなもんで、子どものころはくたくたになるまで遊ぶでしょ。でも大人になると、明日の予定とか考えて、遊ぶのもセーブする。どこか近いものがあると思っていて、はじめはどの医者も全力を尽くす。その患者さんの、治したいという気持ちに応えようと思って、全力で向き合う。でも何人も見てきて、助からない、治らない患者さんも診てくると、医者は最初に診察した段階で患者のその先が見えてしまうようになるじゃないですか。どれだけやったとしても、医療に奇跡は起きないというのを僕らは知っている。そうなるとどこか、次の患者さんへのセーブができてしまう。実はパンの在庫があるのに配らない。じゃあ、いつ渡すのか?という状況が、仕事を続けるなかでできてしまう。

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「患者さんの限界や背景を見極め、最適な治療に導く」(大塚)