吉本の若手を厳しく批判した大平サブロー (c)朝日新聞社
吉本の若手を厳しく批判した大平サブロー (c)朝日新聞社
引退の会見をする島田紳助さん (c)朝日新聞社
引退の会見をする島田紳助さん (c)朝日新聞社

 今年最大の騒動になりつつある吉本興業問題。老若男女有名無名の芸人が登場していろいろ語っているのも面白いところだ。そんななか、集中砲火を浴びてしまったのが、大平(旧・太平)サブロー。後輩芸人たちの会社批判に対し「こいつらふぜいがなんや。気に入らんかったら辞めろ」とラジオで発言して、老害呼ばわりされた。

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 が、じつはこれ、彼にとっては大事な「使命」なのだ。93年に吉本への「出戻り」を許されたとき、会社から7つの条件を突きつけられた。そこには「3ヶ月ノーギャラ」「アルバイト(闇営業)禁止」「亡き会長の墓に参る」などのほか「独立しようとしたタレントへの説得役を使命とする」というものがあった。

 それゆえ、サブローは発言の3日後、テレビでこう釈明した。

「僕は1回辞めてますからね。外、出て、どんな思いしたか。怖かったか」

 それはかつて「加藤の乱」のようなことをしてしっぺ返しを食らった者としての偽らざる本音だろう。ではいったい「どんな怖い思い」を味わったのか、今回の騒動の今後を占う意味でも、ちょっと振り返ってみるとしよう。

■「チャンスはなんぼでもあると思てる」

 発端は88年、大平(当時・太平)サブロー・シローがコンビで吉本を飛び出したことだった。彼らは80年代初めの漫才ブームで世に出て「オレたちひょうきん族」などでも活躍。年収も2千万円はあったというが、本格的な東京進出を認められないことに不満を抱いていた(会社は彼らのバラエティ適性をあまり評価せず、大阪で漫才の灯を守れ、とも言っていたらしい)。

 そこで独立にあたり、大平シローはこんな怪気炎をあげる。

「吉本を辞めたらホサれて仕事がなくなる、と。でも、ボクはそうやないと思てるんです。(略)吉本という大きな井戸を飛び出したら、芸能界、いうもっと大きな井戸がある。チャンスはなんぼでもあると思てるんですよ」

 もともと、彼らは松竹芸能からの移籍組だったから、これもステップアップのひとつくらいに軽く考えてもいたのだろう。しかし、サブローはすぐに後悔した。

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宝泉薫

宝泉薫

1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など

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テレビから消え、仕事も激減