2010年、MAX148キロの速球投手・中崎翔太(現広島)を擁し、宮崎大会の第1シードだった日南学園も、準々決勝の佐土原戦で、中崎の温存が裏目となり、1対2で敗れている。先発の控え投手が4回までに2点を失ったあと、5回からリリーフした中崎は9回まで1安打無失点に抑えるが、左打者を並べた味方打線が相手の先発左腕の荒れ球に的を絞れず、フライアウトを連発。10残塁の拙攻で1点に終わった。

 大阪や愛知などの激戦区はなおさらそうだが、エースの温存は予選敗退の危機と常に隣り合わせだ。

 同じエースの温存でも、シチュエーションが異なるのが、2008年の八幡商だ。背番号1の則本昂大(現楽天)は1年の夏にベンチ入りをはたしたが、甲子園出場決定後、ベンチ入り18人から漏れたことから、最後の夏にすべてを賭けていた。

 1回戦の米原戦は9安打3失点9奪三振で完投勝利。3回戦の堅田戦では、2対2の7回から2年生の辻佳明をリリーフし、延長10回、自らのバットで中前にサヨナラタイムリーを放ち、ベスト8入りを決めた。

 だが、不運にも大会中のけがで、準々決勝以降の登板は回避。辻、高尾洋志、上林達也の3投手がその穴を埋めたが、準決勝で綾羽に2対5で敗れ、甲子園出場ならず。則本自身は「不完全燃焼。出てなかったので、それが一番、悔いが残っている」(2018年8月26日付「Full-Count」)と回想している。見方によっては、このとき無理をしなかったことが、現在につながっていると解釈できなくもない。

 エースの故障という重大なアクシデントにもかかわらず、エースを温存しつつ、見事甲子園切符を手にしたのが、2011年の花巻東だ。

 春の岩手県大会を圧倒的な実力で制した同校だったが、夏の県大会直前に2年生エース・大谷翔平(現エンゼルス)が左足太ももの肉離れを起こしてしまう。

 だが、佐々木洋監督は「大谷だけのチームではない」とエースに頼らないローテーションを組み、左腕・小原大樹、右腕・佐々木毅の両2年生を中心に5投手で予選を戦った。右翼手に回った大谷の登板は、4回戦の久慈東戦での1回2/3だけだった。

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“エース温存”がチームに団結を生み出すことも