マルセイユの八百長問題から欧州を離れる決断をした彼は当初、1994年夏から半年間のつもりで名古屋入りしたが、1995年にアーセン・ベンゲル監督が就任したことで契約を延長。2001年まで在籍し、リーグ戦184試合出場57ゴールという記録を残した。

 その後、2008から2013年には指揮官として名古屋に凱旋。2010年にはクラブに初のJリーグタイトルをもたらしている。当時のチームは楢崎正剛や玉田圭司、田中マルクス闘莉王、ジョシュア・ケネディら強烈な個性が揃っていたが、彼らをまとめ、一体感をもたらしたのもピクシーのカリスマ性があってこそ。それは今も、名古屋を支える人々の共通認識に違いない。

 目下、名波浩・前監督の辞任と鈴木秀人・新監督就任で揺れているジュビロ磐田。その黄金期を築いたドゥンガの存在も忘れてはいけない。1994年アメリカワールドカップ優勝時のセレソンのキャプテンは1995年から1998年まで同クラブに在籍。1997年にはJリーグMVPも獲得している。

 中山雅史や藤田俊哉、名波、福西崇史といったタレントたちを容赦なく怒鳴り、鼓舞し、闘争心を植え付けるそのスタイルはまさに“闘将”そのもの。「ドゥンガにサッカーの厳しさを教わった」と藤田や福西は口を揃える。鹿島にとってのジーコ同様、磐田にはドゥンガがいたから、2000年代前半まで圧倒的な強さを維持することができたと言ってもいいだろう。

 J発足から10年間は彼らのような伝道師的な外国人選手が多かったが、その後は知名度的にやや低いものの、効果的なパフォーマンスでチームを勝たせるタイプの助っ人が増えてきた。

 その代表格が浦和レッズに2003年Jリーグナビスコカップの初タイトルをもたらし、自身も2003年JリーグMVPに輝いたエメルソン。2001年夏から2005年6月まで在籍したブラジル人FWは爆発的なスピードと決定力で敵を翻弄すると同時に、観る者を大いに魅了した。独りよがりでわがままな性格に加え、さまざまな問題行動を起こす破天荒男は時に批判の的になることもあったが、熱心なレッズサポーターには深く愛された。本人も日本を気に入り、日本代表への憧れまで口にするようになったが、結局は高額年俸に惹かれてカタールへ移籍。昨年限りで現役を引退している。

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浦和、鹿島の黄金時代を支えた名手