土さんが2歳半になると、数組の母子と若者で、一戸建ての5LDKアパートに引っ越し、シェアハウスのような共同生活を始めた。各部屋に3組の母子、独身男性たちがそれぞれ住み、育児や家事を分担して暮らし、土さんはここで9歳まで過ごした。

「リビングにいくといつも誰かがいて、本を読んで大好きな電車で遊んでもらいました。毎日いろんな人が出入りしていて、朝起きると知らない大人がリビングで雑魚寝していたこともありました。ワイワイとにぎやかな場所でした」(土さん)

 共同子育ての家は、穂子さんが「沈没家族」と名づけた。夜のニュース番組である政治家が「男女共同参画が進むと日本が沈没する」と発言。それを聞いて怒った穂子さんが、「そんなことくらいで沈没するような国なら、沈没してしまえ!」と、自分たちの共同生活を皮肉ってこの名前にした。

 実際の暮らしは、どのようなものだったのか。土さんは、こう話す。

「保育してくれたのは若い男性が多く、僕や他の子どもたちの様子を、保育ノートに記録していました。『夕方、土と二人で神田川でつれしょん。その後、散歩。夕陽がきれいでした』『三輪車にのるのが上手になっていておどろいた』『土と一緒に走るのが好きだ』『土とはまだ仲良くできないので、今日は土と交流できるようになりたい』など保育ノートの中には、自分の知らない自分がいて驚くと同時に、たくさんの人にかわいがってもらっていたんだなと胸が温かくなります」

 土さんがこの暮らしが「ふつうではない」と感じたのは、9歳の時に母の思いつきで「沈没家族」を離れ、八丈島に引っ越してからだ。「沈没家族」で暮らしていた時期は、保育園の運動会に大人が団体で応援に来た。ちょっと他の子とは違う風景だったが、「うちは人が多くて楽しいなと思っていた」ぐらいだったという。

「母が忙しくていなくても、誰かがそばにいてくれました。母に叱られることがあっても、他の人に慰めてもらうことができました。たぶん9歳の僕にとっては、沈没家族が『家族』でした。だから、9歳で八丈島に引っ越して、母と二人きりの生活が始まったとき、沈没家族が恋しくてしばらく泣いて過ごしていました」(土さん)

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30人の親たちは、何を思っているのか