大学の合格発表は1人で見に行った。自分の受験番号を確認し、合格を知って人生の宿題をやり終えたと感じた。そして、母と子の関係をひっくり返してやりたい、これまでの苦痛を与えてきたことを謝ってもらいたいと手ぐすね引きながら帰宅した。

「あの大学は英語のレベルが高いから、明日から英語を勉強しなさい。お前なんか到底ついていけないんだから」

 合格を伝えた直後の母の言葉に、何かがプツッと切れてしまった。どんなに走っても、報酬が無いどころか、ゴールテープはどんどん先に行ってしまう。

「頑張っても損だという感覚がこのときに生まれたのかもしれません。大学では授業にも出ず、キャンパスで友達をつくることもなく、バイトで資金を稼いでは海外に逃亡していました。母が望むレールを歩くのがバカらしくなったんです」

 それが「外こもり」の始まりだった。インドの奥地や中国、中近東。東南アジアにある安宿の一室で本を読んだり、物を書いたり寝たりしながら、1日1回だけ食事を取る。観光地を見て回ったり、ショッピングや食べ歩きを楽しむことはない。母親が嫌な顔をすればするほど、海外へ逃げた。それが面白がられたのか、就職活動では学生から人気の企業としてランキング上位にいるような大手3社から内定を得た。それでも仕事をすることを体が拒否した。

 大学卒業後に再度ひきこもるようになったときは自殺も考えたが、幼少のころにテレビで内戦や貧困、疫病などに苦しむアフリカの子どもたちが放送されるたびに、母親からいつも

「ご覧なさい。あの子たちはこんなに不幸なのよ……。それに比べて、あなたは食べ物も学用品も与えられて何不自由なく暮らしているのに、今日も怠けていたじゃない」

と責められていたことを思い出し、アフリカに渡った。どうせ死ぬなら本当に不幸な人を見るべきだと考えたからだ。カイロやナイロビに6カ月ずつ、南アフリカで1年など各地の安宿に滞在しながら、外こもりは5年近く続いた。外界との接触が少ない生活の中でも、宿を拠点に売春を営む女性たちや物売りをする子どもたちと話すこともあり、貧しくても不幸ではないと感じた。それどころか子どもたちは天真爛漫で、日本よりストレスが少ないようにさえ見えた。

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“就職”から一転、ガチこもりへ