2019年4月9日、新紙幣のデザインが発表され話題となった。新しい5000円札の顔に選ばれたのは、日本女子教育の先駆者・津田梅子。満6歳でアメリカに渡り、帰国後は津田塾大学を創設するなど女性の地位向上のため生涯を通して教育に身を捧げた女性だ。7月5日発売の『津田梅子』(大庭みな子著)は、津田梅子の手紙の内容を交えて彼女の心情を紐解きながら、その生涯を追った伝記文学である。本文より一部をご紹介しよう。

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 18歳の梅子にとっては、結婚の問題は重大である。まず、日本の異常な早婚と、若い男女が交際の場を持たないことにがっかりし、その上結婚後の女性は子供を育てながら夫とその家族のために献身的に働く以外に何の目的もなく、一生を終わってしまうのに、それでよいのだろうかと思う。

 アメリカで長い間知り合いだった日本人の男性も、帰国後は少数の例外を除いて会いに来ることもなかった。

 日本の女性は、一人で外を歩くこともできない。ほかの女性が外を歩くなら自分も一緒に歩くが、当時良家の子女の外出は人力車が普通だった。梅子は食欲だけが素晴らしく肥る一方なので、良い天候が続くことさえ、この天候が日本人を怠け者にする原因ではないかと本気になって悩んでいる。

 かたや文法もシステムもルールも全くないように思える日本語をただ覚えることの難しさに途方に暮れている。日本では手に入れることの難しい手持ちのわずかな洋服は、肥って日増しにきつくなり、日本政府は帰国留学生に無関心で、仕事の紹介もしない。

 いったい自分たちは何のために日本国民のお金を使って11年もアメリカで勉強させられたのであろう。社会を改善するなどという考えにとりつかれているのは、登ることのできない山を目の前に置かれたようなものではないか。その上、18歳にして結婚にも夢が持てない国情である。

■1883年1月6日

 ………多くの結婚はお互いに相手を何も知らない者同士で行われることをご存知ですか。男性は何となく結婚したくて、誰かに良い相手はないかと言います。すると仲人は家族や両親の間に話を付けて見合いをすることになります。満足すれば婚約となり、間もなく結婚式です。

 婚約は結婚同様、聖なる誓いと見なされ、破約は大変なことですし、そんなことをしたら、どちらかに秘密の理由があったと疑われ、一般に女性の方が非難されます。

 ほんとうの恋愛結婚は男性――大抵は地位の高い男性が、歌や踊りをする低い階級出身の女性と結婚するときに限られているくらいのものです。彼女たちは確かに美しく、芸もしっかりしていますが、これは男性を歓ばすためだけに生きているからです。

 男性が女性を訪れもしないで、どうして恋愛など生まれるでしょう。男と女が交歓の機会を持てる社交界は全くないのです。男性の側は結婚のために、女性の家族、父親や兄弟を見にくることはありますが、女の方はそうできても大抵はしません。

 我が家でもよくあることですが、客は家族と一緒に食事はしません。父の客のときは父だけが客と一緒に食事をとりますし、私の客のときは、私と父だけが客と一緒に食べます。

 ………社会を改革するなら、男女とも教育を受けるべきで、教養を高めた双方が混じり合って意見を交換しなければ。特に女には教育が必要です。………

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 梅子が日本の結婚観、そして男女の地位の違いに疑問と抵抗感を抱き、そして女性の教育の必要性を強く実感したことが窺える内容となっている。

 そしてこの手紙から数年後、梅子は再びアメリカへ留学した。日本で教育者としての道を歩むために、アメリカでもう一度学ぶことにしたのである。

 3年の留学生活を終えて帰国した梅子は、華族女学校などで教育者として指導を行いながら、国家の方針とは異なるやり方で未来の女性を育てるため、私塾を創設する決意を固めていく。
 そして1900年、ついに梅子は念願の私塾を創設するに至ったのだ。

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■モリス夫人宛の手紙

1899年12月28日

 昨年お話したように(前年1898年、梅子はデンヴァーで開かれた万国婦人連合大会に日本女性代表として出席するためにアメリカに渡り、ひき続いてヨーロッパ、アメリカを旅して、アデリン始めブリンマー時代の友人たちに会っている)、華族女学校を今年度が終わったら辞めるつもりです。どんなにこの時を待ちのぞんでいたか、わかって下さると思います。幼い貴族の子女を教えるという名誉はあるにしても、………私の計画はより高等な教育、とくに英語で政府の英語教育者の資格試験に備えようというものです。

 今のところ、私立校でこの試験に備えた教育をするところは皆無で、女性で試験を受ける人はほとんどいません。

 国立の女子師範学校は大変良い教科を教え、教員養成をしていますが(英語はない)、実際に職場を得られる人の数は限られていますし、卒業後の義務や制約があるので、問題があるのです。私は女子の高等教育に全力を尽くしたいので、どうしても自分の学校を持ちたいのです。

 日本でも名の知られているアリス・ベーコンが助力してくれることになっていますので、とても大きな力になると思います。
 御存知のように日本での授業料はとても安いものですから、学校を維持するのに、授業料に多くを期待できません。いま勤めている学校を辞めるのですから、政府から貰うサラリーは諦めますが、自分の生活費をこの新しい私塾から期待することはできません。とにかく五年ほどやってみて、充分な基盤の上に学校が成り立つかどうか見きわめるしかありません。………

 とにかく、仕事を始めるための建物と敷地を手に入れるには3000ドルから4000ドルかかります。来年の夏までにどうしようかと頭を悩ませています。

 この計画にすっかり頭のいっぱいな私は、どうしたらこの資金を集められるかあなたに御相談すれば、助けていただけるのではないかとお願いの手紙を書いている次第です。

 例の留学基金の委員会の皆さまはこの計画に関心を持って下さるのではないでしょうか。ブリンマーに送った留学生は戻って来て私を助けてくれるでしょう。………ブリンマーのミス・トーマスにも助けていただけるか、お願いの手紙を書きました。

………道が開けるのを祈っています。

 政府の学校で働いている限り、自分の考えている教育を実行する自由がありません。あなたやあなたの周囲の方に、私がこの計画のため華族女学校を辞めたがっているのを知られるのはかまいませんが、まだ辞意を表明したわけではないし、政府に対する責任から自由になっているわけではありませんので、この話が日本に伝わってこないよう用心して下さいませ。東京はゴシップのひどいところですから、噂が誇大されて流れるのは困るのです。どうぞ、相手を選んでお願いして下さいますか。――『津田梅子文書』より

 梅子は遂に私塾創設の機は熟したと判断したのだ。思えば長い歳月であった。華族女学校で教え始めて以来、10数年の歳月が流れていたが、梅子の内部世界では恐らく物心ついて以来、いや7歳のとき日本女性の未来のため、自分は外国に学ばねばならぬとその幼い魂に刻みつけられて以来の、培われ、熟成し、遂に発酵し始めた想念だったに違いない。私塾創設に踏み切ったとき、梅子は35歳であった。